「お前を殺す」
緑色の小さな生き物は、確かに、そう言ったのだ。
〔春の夜の〕ある春の夜のこと、住宅街の往来での、不思議な邂逅(そのまま何かのキャッチコピーにでもできそうだ)。
わたしの足元にちょこんと立つ小さな生き物は、顔を目いっぱい上げて、その大きな黒い目でこちらを見上げている。わたしも、猫背気味に立ち、首が痛くなるほど顔を下げて、緑色の小さな生き物を見つめた。様々な感情を乗せた互いの視線が交差するが、そこからは何も生まれない。例えばラブロマンスとか、血で血を洗う愛憎劇とかなら、交差し合う目線から甘い雰囲気が生じたり、喧嘩が勃発したりもするだろう。しかし、今のこの状況は、余りにも異質すぎる。
殺す、とその生き物はまた言った。
「……その、どちら様で?」
「ピッコロだ」
「はあ、ピッコロさん……」
「お前を殺す」
首元を鋭い風が過ぎていく気配がして、途端に息苦しくなった。それもそのはず、わたしの首に、ピッコロなる生き物がしがみついていたのだ。
「人間は嫌いだ! だからお前を殺す!」
「は、はあ?」
生き物の幼い小さな顔と物騒な台詞が相まって、なんだか喜劇の舞台にでも立っている気分だった。恐怖など微塵も感じない。
殺すと言ったってこのピッコロとかいう生き物は武器を持っていないし、仮に何か隠し持っていたとしても、その小さな細い腕でわたしを殺せるとは思えない。
おや、よく見たらその華奢な腕に葉脈が浮いているではないか! 本当によくわからない状況だ。夢なら覚めてほしい。
「おい、聞いているのか! 殺すと言っているんだ!」
「はあ、そうですか……」
ぼんやりと返事をすると、そんなわたしの様子に業を煮やしたようで、殺すと言っているだろう! と首にしがみつく腕に力を込めてきた。更に息苦しくなったような、そうでもないような。
ははあ、それならお好きにどうぞ。小声でそう言うと、生き物の尖った耳がかあっと紫に染まった。
「殺す!」
とうとう声を荒げて鼻息荒く、その生き物は殺気をみなぎらせて――、ぐう、とお腹を鳴らした。空腹で胃が収縮する音だった。激昂のせいで紫に染まっていた耳は更に濃く、緑色の柔らかそうな頬も段々とすみれ色に彩られていく。
もう一度ぐううと音が鳴ると、見開かれた大きな目に涙が溜まった。小さな生き物は、それを隠すように、わたしの肩に顔を押しつけた。手も体も、細い触角もふるふると細かく震えている。くつじょくだ、と小さな声が聞こえた。
殺すと言って首にしがみついてきたのち、こうしてわたしの肩を濡らしている。このよく分からない生き物のすることは、本当によく分からない。
どうしていいか分からず困ったので、左手でその小さな体を支え、右手で背中を叩いてやった。すると、わたしの服を掴む小さな手にぎゅっと力が入った。
夜の往来、春の空気、肩に掴まる緑の生き物。
風がさわさわと頭上を吹き抜けていく。春風に乗って枯れ葉が一枚二枚、それとどこからか、暖かな夕食の匂いが漂ってきた。
考えることを放棄して、わたしは緑の生き物を抱えたまま歩き出す。向かう先はファミリーレストラン。お子様ランチでも買ってやったら喜ぶだろうか。
くるくると鳴り続ける彼女のお腹の音を聞きながら、ひたすらに春夜の道を歩いていった。
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