短・中編
□介護
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僕の奥さんが認知症になったと気づいたのはもうずいぶん前のことだった。
それが発覚したときはもちろんショックだったし、この先どうなるんだと思いもしたが、今となってはそんなもの乗り越えてやるという思いが強い。
……僕がどうなっても、彼を守る。
結婚した時の約束を、改めて心に違った。
いつものように彼が起き出したのは僕が目覚めた4時間も後だった。
……もう12時ですよ。
彼は寝ぼけ眼をこすりながら、
「古泉……」
結婚当初は名前で呼んでくれていたのに、最近は学生時代のように名字呼びだ。
認知症は最近のことから忘れていくというのは本当らしい。
「名前で呼んでくださいよ」
冗談めかして僕が言っても、
「そんなの……恥ずかしいだろ」
と赤らめた顔を隠すように手で覆ってしまうのもいつものことだ。
「呼んでください。一度だけでもいいですから」
「うう……。いつ……、」
ドキドキしながらその声に聞き入っていると、
「だあぁ、やっぱ無理! んな恥ずかしいことできない! 大体、お前も俺を名前で呼ばないだろうが!」
クッションを抱えて上目遣いに見ているのは非常に可愛らしいが、少し困る。
……あなたを食べたい、なんて言ったら彼が怯えるに決まっているからだ。
学生時代の僕たちは、見事なまでに純粋な関係だった。
彼の時間はそこから動いていないようだから、やはりあれやこれやをするのはまずいような気がする。
ちなみに彼が僕の家で寝ているのはその頃もよく泊まりに来ていたから疑問はもたないのだろう。
だから僕は、わざと耳元で彼の名前を囁き、
「僕は言いましたよ?」
といささか意地の悪い笑顔を浮かべるのだ。
すると彼が折れてくれるのを知っているから。
「そういうのはセコいだろ!」
「何がです?」
「ううううう……、い、つき……」
唸り声に混じって聞こえた単語に、だらしなく顔が緩むのを感じながら、
「ありがとうございます。さて、ご飯でも作りましょうかね」
とキッチンまで歩いてエプロンを付けた。