荒磯老人ホーム
□春の巻
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荒磯老人ホームの朝は早い。
事務員の桂木は正面玄関の鍵を6時きっかりに解錠した。
早ければ、あと5分もしないうちに入居者の老人たちが朝の散歩を始めるのだ。
眠い目をこすりながら、桂木は「明日は厚手のストッキングにしよう・・・」と、なかなか暖かくならない春の早朝をうらめしく思った。
玄関の掃除を手早く終え、凍えながら館内に戻ると、一階のホールに入居者、時任稔(79歳)が大あくびをしながら現れた。
「よう、新人。寒そうだな?風邪ひくなよー」と老人は新顔の事務員に声を掛ける。
「桂木です。 おはようございまーす。時任さん」
「おはよう?・・ああ、今って・・・朝?」
おいおい、と心の中で突っ込む桂木に、老人は
「マジかよ、夕方の6時かと思ったら、朝っ!? 駅前のドラッグストア、まだやってねーよな?」と頭を掻く。
『昼夜逆転してるのかしら?引きこもりのゲーマーじゃあるまいし』と呆れる桂木であったが、「角のコンビニなら開いてると思いますよー」と作り笑顔で応じた。
「いや、コンビニには売ってねーし。」
「お一人でお出かけなんですか? 久保田さんは・・」
「ん、久保ちゃんなら、まだ寝てるから。 仕方ねーな、後にすっか。」
じゃあな、と手を振り、部屋に戻っていく時任。
珍しいこともあるもんだ・・・・と桂木はその背中を見送った。
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先月、福祉系の大学を卒業し、この老人ホームに勤務し始めた桂木であるが、入居者の久保田と時任が別々に行動するところなど、見たことがなかった。
とにかく、いつでもどこでも二人は一緒なのだ。
それこそ、まるで・・・「夫唱婦随」とゆーか、「オシドリ夫婦」とゆーか・・・
初めのうちは、他の職員が、そう囁くのを「いい歳こいた爺さん二人に対して、その形容はないでしょ」と突っ込んだ桂木であったが、すぐに間違いに気がついた。
この時任稔という老人と対で語られるのは、久保田誠人、どこか浮世離れした風体の老人。
猫背で、背が高く、目は細く、体つきも細く、腰も細い。
若かりし頃はフサフサだったであろう髪は見事にハゲあがっていた。
しかし、禿げた頭を隠そうとしない、ある種の「潔さ」が有り、久保田の飄々とした性格にも合っている、そんな感じがした。
残った後ろ髪を束ねてチョコンと結んでいる様も愛嬌たっぷりで、老人らしからぬ艶っぽさが漂う。
要するに、禿げて年をとっていてもカッコいいのだ、久保田という老人は。
対象的に先ほどの老人・時任は「ヅラ」かと思うほどにフッサフサの白髪である。
数日前、この見事な白髪に絡んだ、ちょっとした事件が起きた。
新しく入居した大塚という老人が、どーゆー魂胆からか、入居者全員の前で、この時任の見事な頭髪を思いっきり引っ張ったのだ。
時任のことを「ヅラ」だと思い込んだ大塚が、何かの腹いせに、時任に恥をかかせようとしたらしいのだが・・・
有りもしないハゲ頭をお披露目しようとして、時任の地毛を引っ張り、相当な痛みを受けた御礼にと、容赦なくボコられ、大塚愛用のア●ランスが吹っ飛び・・・
ハゲと恥をさらしたのは大塚のほうだった。
来年は80だというのに、少年のような熱さと荒っぽさを全く失わない時任。
この大変な元気っぷりに、桂木は「このジーさん、まだまだ長生きするわ・・・」と、その時、長い長いため息をついたのだった。
時任の姿が消えてしまうと、桂木は「一体、何のお買いものだったのかしらねー」と呟きながら、事務室の扉を閉めた。
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部屋に戻った時任は、まっすぐに洗面台に向かった。
久保田が寝ているうちに、さっさとアレを片づけてしまおう。
サッと水に流して、洗濯機の中に放り込んでおけば気がつかないだろう、多分。
先ほど、動顛のあまり無造作にビニール袋に突っ込んだモノをそっと取り出す。
ジャー・・・という水音で、久保田老人は目を覚ました。
「時任?」
「おう、起こしたか?久保ちゃん。」
「何?ずいぶん早いじゃない。」
老眼鏡を手元に引き寄せながら尋ねると。
「ん、ちょっと・・・な」
時任が、後ろ手に何かを隠すのが目に映った。
「パンツ?」
「・・・・・・・・・・・・目ざとい、っつーの」
困惑しつつも開き直ったように答える時任。
寝床から、自分を見上げている久保田に向かって、ぶっきらぼうに、こう言った。
「・・・また漏れた。」
「あら。」
「やっぱ、年だよな?さっき全部出し切ったつもりだったんだけど・・・」
「んー」
「なぁ、久保ちゃん。アレ・・・買ったほうがいいと思うか?」
「そーね。 後で一緒に見に行く?」
「ああ・・」心持ち赤くなってうなずく時任。
「なんか・・久保ちゃんにバレてよかったかも。アレ、一人で買いに行くのハズイと思ってたんだよな。」
ホッとしたように笑う時任を見て、久保田もまた眼を細めて笑った。
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入居者の朝食が済み、下膳やら食器洗いやらが一段落ついた頃。
事務室に戻った桂木の目に、外出する久保田と時任の姿が見えた。
「お出かけですかー?いってらっしゃーい」
いってきます、おう、とそれぞれ答える二人を見送ると「さぁ、仕事、仕事っ」と事務処理との戦いに備える桂木だった。
老人ホームの玄関を抜けながら、時任は久保田を見上げて話しかける。
「さっき、買いに出ようと思ったんだけどさ、まだ店開いてなくて。」
「そ。」
「なぁ、持って帰る時、中身分かんねぇよーにしてもらえるよな?」
「多分ね。」
「やっぱハズイもんな、紙おむつ持ち帰る、なんてさ」
仲睦まじく出かける二人の背後で、のそりと動く人影が有った。
玄関の植え込みの陰から顔を出したのは、大塚老人。
『紙おむつ?』
今、盗み聞いた事実を頭の中で反芻する。
『時任が・・・紙おむつ!?』
しばらく置いて、くっくっくと怪しく肩を揺らして笑い出した。
全入居者の前でハゲと恥をさらしてしまったことを恨み続けていた彼(自分が撒いた種だということは忘却の彼方である)に、千載一遇のチャンスが訪れた。
奴らが戻ってきたその時に、セコく隠し持っている荷物の中身を暴いて曝しモノにしてやるのだ。
この老人ホームのロビーには、話好きのバーさんたち(腐女子から老腐人と化した漫研出身者たち)が、常時たむろしている。
彼女らにとって、絶好の話題の主は久保田と時任。
こちらが頼まなくても、やつらの動向に敏感な老腐人たちは、こぞって話を広めてくれるだろう・・・
・・・時任が『漏れ老人』になってしまったことを!!
早くも勝利を確信して、玄関のド真中で、狂ったようにのけぞり笑う大塚老人。
その異様な光景は、当然ロビーにたむろする老腐人たちの目にも映った。
それを見て、『大塚くん、頭がどーかしちゃったのかしら・・・お気の毒に・・・』などとは誰も心配せず。
老腐人らは、「春ねぇ〜」の一言で流してしまったのだった。