love me.

□テレビを見て。
1ページ/1ページ



「如月。風呂から上がったならそう言えって」


 リビングルームに顔を出すと、テレビの前で体育座りをする如月が目に入った。風呂から出たばかりなため、髪の毛が濡れたままだ。「んー」と適当な返事しかしないところを見ると、彼女はどうやら髪の毛そっちのけでテレビに夢中になっているらしい。


「何見てるんだ?」


 隣へ行くと、如月は「ワンピース」と短く答えた。


「今学校で流行ってるの」
「へえ」
「とうとうわたしの時代が来たって感じ」
「へ、あ、そう」


 拳を握りへへっと笑う如月を見て、ワンピースは随分前から人気だったという言葉をそっと心にしまいこむ。


「ナミ可愛いーな」
「そーか?」
「しっ、静かに!」


 あんたの方が可愛い、と言いかけた俺を遮る。俺は溜め息をついた。


「静かにって、あんたから喋ったのに……」


 何となく理不尽な気がするが、それだけこのアニメを楽しみにしていたんだろう。俺は黙ってテレビへ視線を向けた。
 オレンジ色の髪の毛をした女がはらはらしている。どうやら、折の中に入れられた元仲間の船長に大砲を撃てと命じられ迷っているらしい。そんなの迷うまでもないだろうに。俺は呆れて如月と共に見守る。大砲を撃てと囃し立てる海賊の一人がしびれを切らせたのか、女からマッチを奪うと、導火線に火をつけた。すると女が棒のような武器を取り出し男の頭を殴りつける。海賊達が動揺している間に女は導火線の着火部分を握り締めることで消火した。女の痛そうな表情に共鳴したのか、如月が同じように顔をしかめる。一応消火は成功し、砲弾が放たれることはなかったが、海賊達は裏切りにいきり立っている。女ははっとし、海賊の頭が女と船長をやってしまえと叫ぶ。絶体絶命、となったところでCMに入った。


「あーあ、CMか」
「ほら、如月、テレビ終わったろ。髪の毛乾かせ」
「うー、でもCMがー……」
「さっきはCMになって残念そうにしていたくせに」
「でも美味しそうー」


 俺は再びテレビに視線を送る。どうやら、某製菓会社が高級チョコレートを販売したらしい。チョコレートの器の中にホイップクリームと生チョコが入っていて、まるでかの有名な音楽家ショパンの旋律と同じくらい優美な気分に浸れる、などと女優が宣伝している。聞いたことのある名前だと思い如月を伺うと、彼女はテレビに視線が釘付けだった。


「あんた、これが食べたいのか?」
「うん。とっても美味しそうー」
「何で買わないんだよ」
「いっつも買うの忘れちゃって……」
「あんたはおばかだからな。三歩歩いたら忘れちまうんだよな」
「う……」


 顔がしかめられ、目にうっすらと涙が溜まる。加虐心が刺激されたが、それよりもまずは彼女の髪の毛を拭くことが先決だ、と俺は思い直し堪える。


「とにかく早く髪の毛濡らしたままだと風邪引くぞ。今のうちに髪の毛乾かしちまえよ」
「あ、ワンピース始まった」
「おい」


 再びテレビに食いつきはじめた如月に、少し怖い声を出してみせる。


「如月」


 俺が何を言っても聞きはしない。いつもなら、名前を呼ばれたらこちらを見るのに、まるで俺の言葉が耳に入っていないようだ。俺は何だか面白くないやら、本当に風邪を引いてしまうのではと心配やらで苛々しているのだが、如月はまったくこっちに注意を祓っていない。仕方ない。俺はバスルームへ行くとバスタオルを取って、リビングに戻ってきた。彼女は未だにテレビを見ている。俺は彼女のもたれているソファに座ると、彼女の後ろから身を乗り出しバスタオルで如月の頭を包みこむ。如月が振り返り俺を見た。


「ユキ?」


 やっとこっちを見てくれた。そのことに、少し頬が緩んでしまう。


「いいからあんたはテレビ見てろって。好きなんだろ、そのアニメ」


 何だかんだで甘やかしてしまう俺は、本当に如月にベタ惚れしているんだろう。


「うん!」
「俺のことは気にしないで見てろよ。まあその分、あとで構ってもらうけどな」
「えへへ」


 だらしなく笑うと、再び意識をテレビに戻す。惚れた方の負け、というが本当だな、と俺は溜め息をついた。しかし、嫌な気分ではなかった。俺はわしゃわしゃと彼女の髪の毛を拭き始めた。
 しばらく無言で如月の髪の毛を拭き続ける。優しくバスタオルでくるみ、水を弾き、ふき取り、整える。彼女は無言でテレビに視線を送り続けていた。いつもはうるさい如月もこの時ばかりは静かだった。よほど真剣にテレビを見ているんだろう。まったく、真剣になる時がこういう下らないアニメを見ている時ってどういうことだよ、と俺は苦笑を浮かべる。
 そろそろいいだろう。俺はバスタオルを脇に置くと、手櫛で如月の髪の毛を整えてやった。彼女の髪の毛は若干水を含みしっとりしている気がするものの、これで風邪を引くようなことはなさそうだ。できたぜ。そう言おうと如月の顔を覗き込んだその時だった。
 きゅっと引き結ばれた桃色の唇や、落ち着いた髪の毛、少し上気した頬やむき出しの白い喉。風呂から上がった後だからかいつもと雰囲気が違う。そう感じた。その後に気付いたのは、少し思いつめて集中しているような、ぐっと真剣な表情だった。泣きそうだったり必死だったりする顔を見たことはあったけれど、この種類のものを見たのは初めてで、俺は思わず息を呑んだ。
 普段のおばかな言動からは想像もつかないが、こんな表情を浮かべているとまるで年相応の女子高校生かそれ以上の女に見えてくるから不思議だ。にじみ出る大人っぽさと普段とのギャップに、頭のくらくらするような興奮を覚える。酸欠のような苦しさを覚え、俺は息を吸おうとした。そして初めて自分が息を止めていたことに気付く。空気を吸い、吐いた息は熱かった。体の深奥の疼きを感じ、俺はそこでようやく悟る。
 俺は、如月に欲情していたんだ。
 二人で酒を飲んだ夜や、喧嘩別れした日のことを思い出す。あの日と同じように、押し倒し、その体に、唇に、かぶりつきたいと思った。髪の毛に指を絡ませ唇をむさぼり頬を包み込み喉元に噛み付きたいと、そう思った。そして、そう思った自分に愕然とした。


「あー今週も面白かったー! ……て、ユキ?」
「あ……」
「どうしたの? テレビ、もう終わったよ?」
「あ……あぁ、本当、だな」
「え、大丈夫? 何だかいつもと様子が違うよ?」
「大丈夫だ」


 俺はぎこちなく立ち上がると、無理矢理笑みを浮かべた。何か用事はないかと目を皿のようにして視線を走らせ、やがて濡れたままのバスタオルを拾い上げる。


「俺、これをバスルームに持って行かなくちゃなんないから、あんたはここにいろよ」
「あれ、遊ばないの?」
「遊ぶ。だから、あんたは先にトランプを配っといて」
「うん、分かった!」


 満面の笑みを浮かべ、今回は負けないよと断言する如月はまるで子供だった。そうだ、俺はこんなガキで元気でパワーがあってめちゃめちゃだけど、温かくて心地いい、そんな如月が好きになったんだ。なぜかそのことにほっとすると、俺はバスルームへ向かった。タオルを籠の中へ入れると、ふうっと息をつく。篭っていた熱は少しずつ消えていった。そうだ、落ち着け自分。何度もそう自分に言い聞かせる。別に俺は如月とセックスしたくて好きになったんじゃない。手ごろな女だったから、たまたま近くにいたから好きになったわけでもない。あいつだから、好きになったんだ。それは間違いない。そうだ、如月とセックスだなんて――
 ふと、思い出す。酒を飲んだあの日は、未遂に終わった。あいつは泥酔していて記憶がない。喧嘩した日も、未遂に終わった。けれど、押し倒してキスして服を剥ぎかけた時、あいつは、泣いていた。
 自分の顔が何気なく鏡に映る。俺は自分の姿を眺めて、その瞳の奥にもの欲しげな色がちらついているのに気付いた。欲求不満だ。俺は納得した。そりゃあそうだ。好きな女がいたら、たとえはじめは純粋な気持ちだったとしても、段々セックスしたいって思うようになるに決まってる。きっと、人間はそういう風にできているんだろう。
 もし、如月とセックスしたら。自分の瞳を覗き込みながら考える。俺は――あいつを壊してしまうかもしれない。


「……いや、大丈夫だろ」


 首を振って否定する。好きな女のためだったら我慢くらい何でもないことだ。とりあえず、あいつの気持ちを俺に向かせないことには話にならない。深呼吸を三回ほど繰り返した後、俺はうなづいて、リビングルームに戻っていった。ドアを開けると、トランプを二山に分けた如月がこちらを見て、大きく手を振った。


「遅いよユキ!」
「悪い。でもま、ぴったりだったろ。あんたシャッフルすんの遅いし」
「な、そ、そんなことないもん! ばかにするのもいい加減にしてよね!」
「いい加減ってどれくらい?」
「うーん、これくらいかな……って、ちょっと!」


 くすくす笑うと、如月がますます怒って身を乗り出した。その時、俺は彼女の胸元に違和感を覚えた。


「なあ、如月、シャツのボタン、掛け間違えてるぜ」
「え? ……あ、ほんとだ!」
「全く、あんたは本当にどうしようもないな。ほら」
「うん」


 何の疑いも持たずに如月が上半身を俺に突き出す。俺は意識せずに彼女の胸元に手をかけ――我に返った。何で今、俺は普通に如月の服のボタンを掛け直そうとしていたんだ? そしてどうして如月は警戒もせずごく自然に俺に服のボタンを留め直してもらおうとしているんだ? おかしいだろ、どうみても普通じゃないだろ。俺は自分の手を見つめ、それから如月の顔に視線を移し、それから自分の手元に再び意識を向ける。ゆっくり手を放した。如月が怪訝そうな表情を浮かべる。


「直さないの?」
「直さねーよ」
「何で?」
「それくらい、自分で直せよ」
「ユキが冷たいー」


 如月は悲しそうな目で俺を見つめると、しぶしぶ自分の胸に手をやった。俺はまたはっとし、「おい」と慌てて呼び止めた。如月が今度は何と見上げる。俺は向こう側を指差した。


「俺が見ている前で着替えようとするな。あっち向いてやれよ」
「えーいいじゃん別に」
「よくない!」


 ボタンが一つ外されただけでああも興奮したあの日を思い出し、俺は必死に言い聞かせる。肌の表面が少しでも増えると、俺は興奮してしまう。


「俺も後ろ向いてるから、あんたもあっち向いて直せよ」
「え、でもどっちかが後ろを向けばいいじゃない」
「いいから」
「……変なのー」


 首を傾げつつも後ろを向き手を掛け始める。俺も反対側を向いた。そして胸に手をあてばれないように小さく息を吐く。俺は、我慢、できるのだろうか。大きく脈打つ心臓のうるささが無理だと俺を嘲笑っているような気がした。

 to be continued.
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ