ユキ連載BOOK

□話し合って、
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「帰ってきたか」


 一ヶ月帰っていなかっただけなはずなのに、なぜか余所余所しく感じられる。そんなことを考えながらドアを開けると、そんな言葉と共にカレーのいい匂いが漂ってきて、わたしは更なる違和感を抱いた。


「お母さん?」


 台所を覗けば、クマさん柄の青いエプロンをしたお母さんがコンロの前に立ってぐつぐつ煮えたぎる鍋をかき混ぜていた。


「ご飯……作ったの?」
「べ……別に構わないだろう! たまには私が料理を作ったって!」


 ち、ちなみにこのエプロンは衛生問題を考えた末につけただけなんだからな! 決してクマさんがかわいらしくてつけたわけではないんだからな! そうほっぺを赤くして言い訳するお母さんに、わたしは思わずくすりと笑い、カレー用の深皿にご飯をよそった。


「似合ってるよ、お母さん」
「だからお母さんというのはやめろ、と言ってい――あぁ、ありがとう」


 ご飯をよそった皿を受け取り、慎重によそい始める。わたしはシンクに目をやった。ずいぶん分厚いにんじんの皮だなぁ。あぁ、それに生ごみは水に濡らしちゃいけないのに。


「お母さん、わたしに会う前料理どんなの作ってたの?」


 席についてそう訊けば、彼はスプーンを渡しながら顔をしかめた。


「どんなのって……普通の料理だが。いただきます」
「いただきまーす」


 お母さんにならってスプーンですくい口へ運ぶ。カレーのスパイシーな匂いとほくほくのご飯がほっぺの内側を熱くさせる。かめば、野菜のシャキシャキ感が――え、シャキシャキ感?


「……どうだ」
「……う、うん。お……おいしい」
「嘘を言うな、嘘を」


 どう贔屓目に見ても美味しくはないだろう。しかめ面で野菜をかみくだきながらお母さんがつぶやく。


「で、でも味は悪くないと思うよ! スパイスの混ぜ具合は絶妙だと思うよ!」
「あぁ、確かにそうだな。ルーを作った食品会社に電話してそう伝えてやれ」
「うっ……」


 わたしは訪れた沈黙をごまかすようににんじんを口に放りこんだ。明らかに生煮えだ。多分にんじんを入れるタイミングが早かったのだと思う。


「そんな顔をするな」


 そうわたしに向かって言うと、勢いよく口の中にカレーを放り込んだ。半ば自棄になっているように見えた。


「今まで仕事にかまけてお前に料理の一つも作ってやれなかった当然の結果だ。裏のパッケージに作り方書いてあったから大丈夫だと思ったのだが……まぁ、新米の頃にすら作らなかったからな、一発目でうまいものを作ろうとした私が馬鹿だった」


 お母さんの昔の話を聞くのは初めてじゃない。笹塚さんがやってきた時話してもらうのはお母さんのことばかりだし、その中には昔のことも含まれる。でも、お母さん自身の口からお母さんの話を聞くのはあんまりなかった。少し新鮮で嬉しい。


「あ、そういえば笹塚さんは塩と焼酎と日光でしのいだって言ってたよ」
「あいつと一緒にするな。私も給料は多くなかったし毎日大変だったから、凝ったものは作らなかったが、栄養バランスは一応考えていたんだぞ」


 鼻を膨らませるお母さんに、例えば?と訊いてみる。


「そうだな……ハンバーグとか焼き魚とか、とにかく手間のかからない簡単なものとご飯という組み合わせが多かったな」


 かつてを思い出すようにしみじみ言った後、そういえば、とわたしの方を見る。


「おまえの作る料理に焼き魚が出たことはなかったな。後ハンバーグとかステーキとか。確かにカレーやシチューや肉じゃがは一度作ったらしばらく食べることができて便利だが……魚や肉は嫌いなのか?」


 その質問にひやりとする。


「そういうわけじゃ……ない、けど」


 必死に平静を装うものの、お母さんにはお見通しらしい。


「じゃあなぜだ。理由を言ってみろ」


 するどい視線でわたしを見やり、そう訊いてきた。わたしにはこれ以上隠し通せる確信はない。


「あのね」


 息を大きく吸う。


「焼き魚とか、ハンバーグとかは、カレーや肉じゃがと違って人間の数分用意しなくちゃいけないでしょう?」
「まぁ、そうだな」
「もし二人分焼いて、その日一つ残ったら、何だかさびしいでしょう?」


 お母さんが息を止める。罪悪感が少しだけ胸をよぎったけど、わたしの口を止めることはできなかった。何だか胸が苦しかった。この痛みはユキと別れてからずっと続いている。拒絶された痛み、捨てられた痛み。それが心をちくちくつついて、長年心のそこに隠していた様々な思いを吐き出させた。


「それにね、お母さん。わたし、期待したくなかったの。お母さんが今日は帰ってくるかな、どうなのかなって、期待したくなかったの」


 お母さんは黙って聞いている。沈黙も痛い。わたしは口を開き続ける。


「期待した分だけがっかりも大きくなっちゃうもん。だから、期待しないようにしてたの。二つお魚やハンバーグを作るなんて、まさにお母さんが帰ってくるのを期待しているみたいじゃない」


 カレーや肉じゃがだったら鍋いっぱいに作るし、食事に参加する人数が急に増えても大丈夫だ。だからわたしはできるだけ、魚や肉は避けてきた。実際お母さんと一緒にご飯を食べるのは、三ヶ月に一度あるかないか。
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