ユキ連載BOOK

□もうやめて、
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「お帰り、ユキ、お嬢さん」


 玄関ですれ違ったアニキに小さく会釈すると、挨拶もそこそこに部屋へ引き上げていく。アニキはそんな如月を見ておやと言うように眉を吊り上げる。


「仲直りしたんじゃなかったのか」
「仲直りはしたけど……なぁ、アニキ」


 あんたは知ってたか? 如月の言う“母親”が誰か。


「“笛吹直大”だろう。もちろん知っているさ」


 あっさり言い当てるアニキに、知らなかったのは俺だけだったのかと唇を噛む。


「ヒステリアを捕まえたり初めてXの捕獲を具体的に意識した陽動作戦を企画したり。日本の警察にしては骨のある奴だよ。そいつがどうかしたかね」
「俺と如月がいるところにそいつがやってきたんだ」


 俺は彼が如月にバイトを辞めさせようとしていることを話した。


「アニキ、言ったよな。如月の親があいつを連れて帰ろうとしても戦うって」
「あぁ。そういえばそうだったな。……いや、しかし……」
「何だよ、アニキ。言いたいことがあるならはっきり言えって」


 歯切れの悪いアニキを促すと、しぶしぶと言った様子で口を開いた。


「いや。ただ、今簡単に計算し直してみたら、笛吹相手だと分が悪いことに気付いたものだから」


 何をどう計算したのか説明はなかったが、そんなことはどうでもよかった。


「それに、お嬢さんの私達への気持ちは離れていっているだろう? それならわざわざ引き止めることもないだろうと思うがね」
「アニキ、でも、俺達は――」


 何でそんなこと言うんだよ。俺達には如月が必要だったはずだろ。一緒にいて楽しい存在であり、大事な存在だったはずだろ。そりゃあまだ日は浅いけど、けど、俺達は。
 そんな言葉の数々を口に出すことができなかった。
 アニキが背を向け歩き始める。


「確かに惜しいが、仕方ない。笛吹が相手では分が悪い。また別の馬鹿そうな女を見つけてくればいい」
「……あんたにとって、あいつは、代えの効く存在、だったのかよ」


 やっと出た声は少し掠れていた。アニキが足を止める。


「お前にとってはどうだったんだ」


 逆にそう訊かれ、俺は咄嗟に答えられなかった。
 俺とアニキはいつも一緒だった。擦れ違った時期もあったが、それを乗り越えてからは更に強い絆で結ばれたし、俺は会社の為、というよりはアニキの為に動いてきた。つまり、俺は常に“俺達”の単位で動いてきた。
 じゃあ、“俺”だけにとってはどうだっただろう。俺個人にとっての、あいつは――考えたこともなかった。俺は愕然とした。
 あいつと俺だけの時間はたくさんあったし、あいつに対していい感情を抱いていることは分かっている。けど、あいつに対する俺の位置づけは、“俺とアニキにとって必要な存在”。
 もちろん、この位置づけが間違っているとは言えない。けど、もっと的確な言葉があるはずだ。それさえ分かれば、俺がどうすべきかも見えてくるはずだ。けど、それが何なのかまでは分からない。ぼんやり輪郭のない言葉だけが頭の中に浮かんでは消えていく。
 とても簡単なことなはずなのに、何で答えは出てこないんだろう。あまりのもどかしさに苛々して仕方ない。喉にせり上がってきた熱い感情をもてあまし、俺はいらいらと溜め息をついた。


「お前はあのお嬢さんにご執心だったみたいだからな。今回の件はお前の好きにしなさい」


 今度こそ、アニキは去っていく。かつん、かつん。足音も遠ざかっていく。かつん、かつん。その足音に違和感を感じ、何となく足音に耳をすます。違和感は段々大きくなっていく。
 俺はさっき通り抜けてきたドアをばっと開け、誰かも確認せずに殴りつけた。丁度ドアに手をかけていたらしいその人物は、まともに俺のパンチを食らい、反対側までふっ飛んだ。


「どうした、ユキ」
「どうも足音が妙に反響していると思って様子を見てみたら、招かれざる客が来ていたんだ」


 リビングからアニキの鷹揚な声が飛んでくる。俺は壁にそいつの頭をぐりぐりと埋め込んでみせた。おそらく三十代くらいの、いかつい男だ。どこにでもありそうなスーツを着用している。痛い、放してくれと懇願するように息を漏らす男に嫌悪感を覚える。


「身に覚えは?」


 アニキがまたかというように首を振り尋ねる。実際、誰かが俺達の後をつけてアジトを発見することなど珍しいことじゃなかった。


「公園で笛吹と揉めたことくらいかな。笛吹に個人的な恨みを持つ男が如月を利用しようと後をつけてきたのか、俺達のアジトを見つけるつもりできたのかはわからねーけど」
「どちらでもいいさ。彼が私達のアジトを知ってしまったことに変わりはないのだから」


 アニキが言葉と裏腹に優しく微笑んでみせる。


「いつも通りに頼むよ、ユキ」


 アニキが背を向けるのと同時に了解、と返事をする。そして俺は改めて男へ視線を向けた。


「さーてと」


 抑えている方とは反対側の手で男のポケットを適当にまさぐり、財布を取り出す。片手で開けて中にある金をひっくり返すと、小銭と免許証が落ちてきた。


「しけた財布してんな」
「む、むぐ、ぅ」
「あ? 何言ってんのかわかんねぇよ。ま、とりあえずこれであんたの身元は割れたわけだ」


 どういう意味か分かるか?そう訊くと、俺の手のひらの下で可能な限りふるふると横に振ってみせた。


「つまりな、あんたの身元を確認する為の拷問をする必要はないってことだ。良かったよ。俺は拷問のために振るう暴力があまり好きじゃねぇんだ」


 男の頭を解放してやる。男は弾かれたように立ち上がり、俺の脇を擦り抜け非常階段に向けて真っ先に走り出した。俺はそんな彼の背中を足の裏で押しやるように蹴った。


「ひぎゃああぁぁぁぁ!」


 男が聞きづらい悲鳴を上げて下へ下へと落ちていくのを俺は無表情で見つめていた。そして、踊り場のところで止まりぴくぴく痙攣している男の元へと、ゆっくり歩み寄る。男はしばらく宙を見つめていたが、顔に俺の影がかかった瞬間ひぃっと息を呑みガタガタ震えだした。
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