ユキ連載BOOK

□うそついて、
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「どうした、ユキ」


 アニキが飲んでいたコーヒーから口を離し、うんざりしたように声を上げる。俺はタイピングしていた指を止めた。


「どうしたって、何がだよ」
「昨日から溜め息をついてばっかりだ。苛々していて動作も乱暴だし、夕べの晩餐はまるでお葬式みたいだった。いつもならお嬢さんと目に毒なくらいじゃれあうのに、一言も言葉を交わさないし、目すら合わせない」


 お嬢さんと喧嘩でもしたのか。そうアニキが訊いてきた。俺はそんなんじゃない、と首を振る。


「ただ……」


 ここで俺はふと思い立って訊いてみる。


「なぁ。もし、如月の親が如月を取り返しにきたら、アニキどうする?」
「それはない」


 きっぱりと断言し、それに、と続ける。


「もしそうなったとしても、私は彼女を放さない。彼女は我々の使い勝手のいい駒であり、癒しを与えてくれる愛玩動物であり、大事な家族なのだから」
「そう、だよな」


 きっとアニキも感じ始めているに違いない。彼女への、特別な愛着を。


「だが」


 アニキがふぅっと溜め息をついた。


「それだけではいささか不十分だな」
「え」


 何がだよと視線を向ければ、アニキは説明を始める為に軽く咳払いをした。


「お前は気付いているか。彼女が本気で逃げ出そうとしていないことに」
「そりゃあ、もちろん……え、そうなの?」
「その分では気付いていないようだな」


 最初の頃ほどではないにしろ、あいつは今でも思い出したようにたまに脱走しようとする。その度に俺は如月を捕まえお仕置きと称して息が切れるまで体中をくすぐってやる。その時彼女が苦しげに身をよじらせるのを見るのが、俺はたまらなく好きだ。けど、彼女はいつも本気で逃げ出そうとしていると思っていたし、捕まるのは彼女がドジだからだと思っていた。


「もちろん彼女は、逃げ出す時は本気だ。だが、本当にここが嫌ならとっくに逃げ出しているだろう。学校にいる時に先生に助けを求めたり電話で親にSOSを出したりしてな」


 それはそうだ。俺は思い当たった。学校にいる間は、如月は自由だ。


「それを本気でしないのは、彼女が私達を好きになり始めているからだ。私達といるのが楽しいと思い始めているし、一緒にいたいと感じ始めているからこそ、私達の元から逃げ出さない」


 それは感じられる。彼女は感情を態度に出しすぎている。だからこそ、彼女と一緒にいて安心できるんだと俺は思っている。


「だが、まだまだ弱い。彼女の中にある母親への思いは根強い。もし今母親がここに乗り込んできたら、彼女は間違いなく家へ帰るだろうな」


 母親。その言葉に俺はつい苦虫を噛み潰したような表情を作ってしまう。大していい母親じゃないのに。俺の方が絶対彼女を大事にしてやれるのに。何でそいつは如月に愛されているんだ。


「早く彼女の家への未練を断ち切ってやらなければ、ここへの執着を強いものへと仕立ててやらなければ。
いくら私達が頑張っても彼女をここに繋ぎ止めておくことはできない」


 ここまで話すと、アニキは再びコーヒーを口へ運んだ。その様子を呆然と眺めている俺に、まだいたのか、と呆れたような視線を送る。


「ところで彼女は、二丁目の角の店のアイスクリームを食べたがっていたぞ。昨日、新しいフレーバーの宣伝をテレビで見て、食べたいと漏らしていた」


 アニキが追いやるように手で振り払う。俺はまだ座っていたが、やがて立ち上がると、さんきゅ、アニキ、と言い捨て部屋を飛び出して行った。





 如月の体からは負のオーラが絶えず滲み出ていた。それは苛立ちとか悲しみとかそんな類のものではなく、後悔とか寂しさとかそういう後ろ向きな、どちらかというと自責の念に近いようなものだった。


「如月」


 迷って躊躇ってを五回ほど繰り返した末、ようやく俺は声をかけた。びくりとその体が撥ね、それからゆっくりと俺の方を振り向く。その目はたくさん泣いたのか腫れていて、見ていて痛々しかった。如月はしょっちゅう泣いているが、翌日にまで響くことはなかった。


「ユキ」


 口を開き、躊躇ったように閉じ、それから再び開き、俺の名前を呼ぶ。俺も彼女もしばらく黙りこくったままだった。これは……やっぱり俺から話しかけるべきなのか?まぁ、そうだよな。俺が彼女を怒らせたわけだし。


「なぁ、」
「あのね、」


 口火を切れば、彼女も同時に口を開いていて。如月がしまったという表情をしているのを見て、きっと今俺も同じ顔をしているんだろうな、と想像できた。


「先にどうぞ」
「いやいや、ユキからどうぞ」


 言われて俺は深呼吸をし、後ろ手にして隠していたアイスクリームを差し出した。


「これ……」


 お詫びの印なんだけど、食う? ……いや、何か上から目線な感じでやだな。
 つい二つ買っちゃったんだけど、いる? ……何だこの間抜けな軟派のセリフ。


「……食えば」


 あれこれ悩んでいるうちに、つい素っ気無い言葉が出てしまい、焦る。激しい後悔が押し寄せる中、如月がくすりと笑った。


「ありがと」


 そっと俺へ手を伸ばし、アイスを受け取る。その時になって俺はやっと、アイスがドロドロに溶けていることに気付いた。


「あ、悪ぃ、アイス」
「いいよ、大丈夫」


 俺から庇うようにアイスを奪い取る。


「すっごく嬉しい。ありがとね」


 その表情はさっきより柔らかい。俺はほっとし、近くの小さな公園へ入りベンチに座る彼女に続いた。
 彼女の隣に腰かけた時、如月は手首にまで垂れているクリームを舐めとっていた。初めてAVを見た時を思い出し、俺は慌てて目線を逸らした。鼓動が異様に速くなる。やることもないので、俺は自分の分のアイスを口へ運んだ。このアイスがどうしてこんなに溶けているのか、如月が理由を考えなきゃいいんだけど、と思う。彼女に話しかけるのに、どれだけ俺が躊躇していたのかを顕著に表しているようで、恥ずかしい。


「ごめんね、ユキ」


 しばらくして、如月が口を開く。


「何であんたが謝るんだよ」
「わたし、昨日、ついかっとなっちゃって。まさかユキがお母さんの悪口言うわけないもんね」


 いや、実際俺はあんたの母親を貶したんだけど。


「ユキは意地悪だけど、本当は優しくていい人だし、お母さんは貶しどころのないすごい人だもん」


 俺はいい人なんかじゃないし、あんたの母親もすごいだけの人間じゃない。そう言いたいのをぐっと堪え、俺はじっと耳を傾けていた。また余計なことを言って、彼女を泣かせたくない。


「拗ねちゃったりしてごめんね」
「……あんたが謝ることはねぇって」


俺はただこう言うことしかできなかった。


「俺も悪かったんだ。今度からはもっと言葉に気をつけるよ、約束する」
「じゃあ、仲直りだね!」


 如月がにこぉっと笑い、ぎゅっと俺に抱きついた。突然の行動にびっくりするも、慌てて彼女を受け止める。


「よかった。わたし、ユキに嫌われちゃったかと思って……」


 言いかけ、はっとしたように息を呑む。俺も息をつめた。その言い方じゃあまるで、如月は俺に嫌われたくなかった、みたいだ――


「ごめん、今の忘れて」


 如月がぼそりと呟く。


「わたしはただ、ユキに捨てられるかと思って。だって、ほら、わたしはまだあなた達に利用されたいし、されなくちゃいけないもの……」
「利用……」


 その言葉に眉を寄せる。確かこいつは、初めて会った時もそんなことを言っていた。それからも時々、利用されたい、してほしいとうわ言のように呟いている。


「なぁ、あんたさ、」


 俺は彼女から少し顔を離して、その表情を覗き込んだ。


「何で俺らに利用されたいんだ?好かれたい、とかならまだ分かるんだけど。利用されるなんて、全然いいことじゃないだろ」
「うん、そうかもだけど。でもね」


 如月が少し躊躇いながらも口を開いたその瞬間だった。


「ああぁぁぁ!」


 獣の咆哮のような叫び声が俺の耳をつんざいたのは。
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