子犬のワルツ

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2日後の昼。私は月々谷のとある定食屋で携帯を弄っていた。相手が来るまでは許されるだろう、とトゥイッターに投稿する文章を組み立てている。

「どんな人間だって表と裏があり、心の底に何かしらの思いを抱えて生きています。今回爆撃事件を起こしていたのは、どこにでもいる幸せな若い良妻賢母の女性でした。きっと、どんな人間だって、善と悪、常識と本能の間で揺れ動く時はあります。簡単に割り切れればいいかもしれませんが、時に善悪は見方によってガラリと変わります。もしかしたら自分だけの価値観や欲望だけで判断するのは危険なのかもしれません」

「おまたせ」

顔を上げると、やつれた顔の笹塚さんが向かいの席に着くところだった。荷物を隣に置き、ぽきりぽきりと首を回している。

「悪かったな、待たせて」
「大丈夫。何がオススメ?」
「親子丼かな。鶏肉も香ばしくて美味いんだよ」
「じゃそれで」

笹塚さんが合図し、店員を呼ぶ。最低限の労力で的確に要望を伝える彼の様子を、私はじっと見ていた。
ヒステリア逮捕後、筑紫さんは笹塚さんの過去を私たちに話してくれた。10年前、Xによって家族が惨殺されたこと、それによりキャリア組への道を捨て、1年ほど姿を消し、その筋の人間と繋がりを持ったこと。警察と裏社会の力があれば、Xを捕まえる可能性が高くなること。それから、彼には高校生くらいの妹がいたこと。
桂木弥子は話を聞き、笹塚さんに知りうる情報を全て提供することを決心していた。今日の午前中も、きっとその件で桂木弥子に会っているはずだ。でも、私はーー。

「何か?」

じっと見つめる私の視線に気付き、笹塚さんが首を傾げる。私は駆け巡っていた思考に蓋をし、いつもの冗談に擦り替えた。

「相変わらず顔色が悪いね。ちゃんと食べてる?」
「俺はこれが平常だからいいんだよ」

「元から」ではなかったくせに。一瞬そんな考えが脳裏を過る。

「君は……前より健康そうだ」
「それ、太ったって言いたいの?」
「違う、前は痩せてて見ていて辛かった。今の方がずっといい」

照れずにさらりと伝えるところはさすが大人だなあと思う。悪口に紛れさせる吾代さんとは大違いだ。でも、2人とも形は違えど、ずっと私を心配してくれていた。そのことは今になればよく分かる。

「まあ、桂木弥子とか元同僚に連れ回されてるからね」
「仲が良いんだな」

笹塚さんの視線がちらりと逸れる。その視線を追いかけた私は、無言で灰皿を差し出した。

「よく分かったね……いーの?」
「どうぞ」
「どうも」

笹塚さんが早速煙草に火をつけると、すーっと吸い込み、一瞬の間ののち、ゆっくりと吐き出した。

「……弥子ちゃんの事務所にいるのを見た時は正直驚いたよ」
「私の方がもっと驚いたけどね。まさかあんたが刑事だったなんて」
「変態の汚名は注げたかな?」
「残念、実際に使う時点であんたは本物よ」

ああ、私も吾代さんと結局変わらないくらい素直じゃないし、口が悪い。笹塚さんが気にせず、むしろどこか可笑しそうなのが救いだ。

「……まあ、でも、正直ホッとした」

笹塚さんがぼそりと呟く。

「凄腕の暗殺者に身一つで乗り込むし、その後全然連絡がつかないし。君が無事で、本当に良かった」

しみじみと呟くその言葉に、私はふと出会った頃のことを思い出す。

ーー「うるさいなあ、何でそんなに構うわけ?」
ーー「君が妹に似てるから、かな」
ーー「あんたも兄弟がいるの」
ーー「ああ、丁度君くらいの」
ーー「そう。じゃ大切にしてあげて」

その頃の私はその言葉を聞いて、兄さん達と重ね、少しだけ警戒心を解いたのだけど、今考えれば、随分残酷なことを言ってしまっていたと思う。もう死んだ妹を大切にして、なんて。

「やっぱ弥子ちゃんに会ったのは事件絡み?」

心配させたり暴言を吐いたり、勝手に過去の話を聞いてしまったり。数々の引け目があった私は、自然と今までの経緯を話し始める。兄さん達とうまくいっていなかったこと。襲撃した暗殺者を殺害して、認めてもらおうと思い、失敗したこと。何とか帰宅したが、兄さん達が病的に過保護になり家出をしたこと。バイト先の殺人事件を解決してもらった縁で働いていること、など。笹塚さんは一言も口を挟まず、しっかり耳を傾けてくれた。そして、親子丼は評判通り美味しかった。

「……そんな気はしてたんだよね」

食後のお茶に口をつけ、笹塚さんはそんな一言を漏らす。

「兄が妹を心配する気持ちはよく分かるし、君は輪をかけてお転婆だから、大好きだと言う君の兄さんに止めさせようと思ってたんだ。でも、あの電話越しの剣幕は……尋常じゃなかったし、それを君に向けていたらどうしようと思ってた。余計なことをしたんじゃないかって」
「まあ……あの時は余計なことをって思ってたけど、自業自得な部分も大きいし、心配してくれた気持ちは嬉しいと思ってるよ」

そう言ってみせるものの、笹塚さんの眉の皺は取れないままだ。そんなの、私が彼にしてしまっていることに比べたら、全然大したことないのに。

「……それで、今後君はどうしたいの」
「私は……」

兄さんの役に立つという判断基準ではなく、はじめて自分のやりたいことや善悪を踏まえて考えた内容だ。正直、他人に話すほどの自信はない。良し悪しなんて見方を変えればがらりと変わる。それでも私は彼に聴いてほしくて口を開く。

「やっぱり兄さん達が恋しい。今までずっと頑張ってきたのは、兄さん達のためだし、その時間を否定したくない。でも、ただ帰りを待つ人形なんかにはなりたくない。兄さん達とは1人の人間として対等に扱ってほしいし、兄さん達以外の人たちともちゃんと関係を保ちたい」
「うん」
「でも、兄さん達にただ口で言っても多分聞いてもらえないと思う」
「うん」
「だから、ぶっ壊そうと思う」
「うん……え?」

ポロリ。口の端から煙草が零れ落ちるが、彼はそのままだ。

「まず問題なのは、ユキ兄が私に執着しすぎてること。これは多分、久兄に構ってもらえないから、私に関心が集中しているんだと思うの」
「うん」
「で、久兄がユキ兄をおざなりにしているのは、久兄の会社と久兄に仕事を全振りしてくる馬鹿社長が悪いと思うの」
「うん」
「だから、壊すの。久兄が陰で進めてる計画全部。ひっくり返すの。私たちの関係性を、全部。そうすればきっと、流石に聴く耳は持ってくれるんじゃないかな」
「……随分、過激だな」
「全然。むしろ実力でユキ兄たちを負けさせれば、あの人たちはとんでもなく腹黒だけど筋は通ってるから、聞く耳くらいは持ってくれるようになるはず」
「……悪くはないと思うけど」

笹塚さんが言葉を選びながら言う。

「成功する算段はあるのかい。言いたかないけど、前回はそれで失敗したろ」
「前回は圧倒的に準備不足だったし、1人でやろうとしたから失敗した。今回は徹底的に準備するし、周りの人に頼るから大丈夫」

まっすぐ目を見つめると、笹塚さんがふうと息をついた。

「その中に俺は入ってる?」
「ダメだった?」
「入れなかったら怒ってるところだよ」

視線を合わせ、空気が解ける。空気が和やかになったところで、笹塚さんが「…….それで?」と切り込む。

「まだ何か引っかかってることがあるんじゃねーの?」

油断しきっていたところに鋭く切り込まれたものだから、どきりと心臓が跳ねる。

「抱えてる事件も解決して、今後の方針も決まった。その割には今日は度々暗い顔をしてる」
「私はこれが平常なの」
「君は相変わらず嘘が苦手だ」

笹塚さんが新しい煙草を咥えながら別にいいけどと呟く。話しても話さなくてもいいと逃げ道を与えてくれる優しさに、余計罪悪感が募る。

でも、言えるわけがない。
笹塚さんの家族を殺したXに何度も助けてもらったなんて。
世界的大犯罪者のXを嫌いになれないなんて。
より多く笹塚さんにXの情報を伝えるなら私が今まであったことを話すべきなのに、その情報どころか、繋がりがあったことさえ笹塚さんに伝えきれていない。
笹塚さんは私に射撃を教えてくれたり気にかけてくれたり、今までたくさんのものをくれていたのに、私は一切何も返せていないままだ。

もし笹塚さんがXを逮捕するとしたら。あるいは復讐としてXを殺そうとしたら。
逆にXが笹塚さんを箱にしようと動いたら。

その時私はどっちにつけばいいんだろう。

「……笹塚さんは迷ったことない?」

言葉を選びながら慎重に話しかける。

「自分の知り合いがもし決定的に仲違いをしてしまった場合、自分はどっちにつくべきか」
「ああ……」

笹塚さんは少し煙を燻らせた後、長く吐き出した。

「それはそん時になってみないと分からないけど、それは喧嘩している側の問題だし、まあいい歳した大人なんだから、そいつら自身が解決するでしょ。それで柚子ちゃんの意思や行動を捻じ曲げるのは違うと思う」

大人の無難な回答だ。間違っていないし、言い訳が立つ。私に都合の良い回答だ。

「君は今、やりたいことがあるんでしょ。じゃ、君の道を行きな。君は君だし、俺は俺だ。俺が刑事である前に笹塚衛士であるのと同じように、君も役割や陣営に拘りすぎなくていい」
「……そうだね」

時々思う。彼は実は全てを見透かしていて、かつ私が迷わないようにうまく言葉を選んでくれているんじゃないかと。
差し障りのない大人のスマートな振る舞いは、けれど当たり障りがなさすぎて、少し寂しさすら感じさせた。
Xに復讐しにいく時、きっと彼は私に何も言わずに姿を消して1人渦中に飛び込んでいく気がする。きっと今の状態では、その時の彼に声をかける権利すら、私にはない。それならどうする、と考えかけて…….やめた。さすがに私のキャパシティを超えている。目の前の作業を終わらせてから考えよう。

「笹塚さん。そろそろ仕事戻る?」
「ああ、そーね」

私はいそいそと財布を取り出すが、笹塚さんは伝票を持ち「いいよ」と言ってくれた。

「話も色々聞けたし」
「申し訳ないよ」
「いいから。またうまいもん食いに行こう」

笹塚さんは手早く会計を済ませると、「じゃ」とだけ残して去っていった。その後ろ姿を見つめたあと、今度はトゥイッターを開いた。

「ただ、忘れてはいけないのは、立場がその人の全てを定義づけるというわけではないことです。たとえば刑事、たとえば家族。社会生活を送る上で色々な立場が付いて回りますが、それに縛られすぎて、本当の自分やその人自身を見失ってはなりません」

書いて投稿しかけ……止める。
私が本当に伝えたい相手は不特定多数のフォロワーじゃないし、私が伝えたい言葉はこんなことじゃない。

学生時代、よくかかってきていた番号にショートメッセージを残す。

「あの時のこと謝りたい。会いたい」
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