子犬のワルツ

□掘り当て壊したものの先
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子供の頃は大人になったら今よりずっと強く賢くなれると思っていた。アニキの仕事を助けて、柚子から尊敬の眼差しを向けられて。アニキに仕事を丸投げする馬鹿社長にガツンと言ってやろうとも思っていた。そうやってもぎ取った休みと給料を、下らない悪戯と美味い飯にぶち込んで、3人で楽しくてあったかい毎日を送っていく。そう信じていた。
ただ、現実はやっぱり甘くない。




「丁度良かった。ユキ。少し頼まれてくれないか」

廊下ですれ違った際、アニキに呼び止められる。彼が差し出した封筒の中には、ターゲットの男の顔と個人情報が記載された資料が入っていた。俺はそれを数秒眺めて完璧に記憶した後、アニキに返す。

「ふーん……こいつをやればいいんすか?」
「ああ。と言っても、今回は軽く脅すだけでいい。手足を派手に怪我させる程度でいい。目撃者は作るなよ。警察にもくれぐれも注意をすること。場所はそうだなあ、職場先の3階の男子トイレがいい。入った瞬間に恐怖を植え付けて、痛めつけてやれ」

注意事項を頭に叩き込んでいくが、所々不可解な部分に首を捻らせる。何で男子トイレなんだ? 別に自宅でもデスクでも路地裏でもいいだろうに。しかもこいつはぱっと見、表社会の普通の会社員だ。うちに直接関わってる訳でもないし、裏と表の棲み分けを大事にするアニキのポリシーには合わないように思う。

……何で男子トイレなんですか。

尋ねた場合のシミュレーションを行うと、脳内のアニキは笑顔の奥で億劫そうな色を匂わせる。そして、喉の奥でこんな言葉を転がすんだ。「ーー君に説明している時間はないし、したところで無駄だ。君はただ、黙って言うことを聞いていればいい」。

これは決して妄想なんかではなく、実際の記憶に基づいたシミュレーションだ。思い出すだけで腹の底から冷たい感覚が湧き上がり、俺は身をぶるりと震わせる。

「……了解」

あんな眼差しと言葉はもう出来れば二度と味わいたくない。物分かりの良い振りをすると、目の前の上司は満足そうに笑った。

「うん。よろしく」

ゆっくり歩き去る姿を俺は無表情で眺める。言いたいこと聞きたいことをそうやって何度も出しかけて引っ込めてを繰り返すうちに、いつのまにか希望や笑顔やらまで、どこかへ失くしてしまった気がする。

笑顔がモットーの俺の職場は、俺にとっては笑顔とは無縁の場所だ。




「ユキ兄! おかえり!」
「ただいま、柚子」
「ごめんね、今日ちょっと用事が長引いちゃって、まだ夕ご飯の支度をしている途中なんだ。もう少しだけ待っててくれる?」
「……ああ」

心が緩むのは、今じゃ柚子と話してる時くらいだ。帰宅すると料理を用意して純粋な笑顔を向けてくれる。彼女の笑顔だけは無条件で信じられる。
……たとえ、支度の遅れた理由が、闇金での怪しげなバイトやら、友人とのハッキングやらのせいであっても。

「ユキ兄、今日はどんな1日だった?」
「……いつも通り」
「そっか」

アニキと同じ会社で働き始めた頃は、柚子は毎日のように仕事の話をせがんできたものだが、思うように仕事も人間関係も築けていない俺は情けない姿を見せたくなくて、言葉少なに素っ気なく返す。流石になんとなく気付いてきたのか、柚子はもう仕事の細かい話に触れなくなった。


「柚子は?」
「….…いつも通りかな」
「そうか」
「……へえ。アヤ・エイジアだって」

柚子が話すことも大学の授業や読んだ本、話題となったニュースの内容のような、他愛もない話ばかりだ。今みたいにテレビをつけてその時々感じたことを刹那的に話す。放課後打ち込んでいるであろうバイトの話はしない。友だちの話もしない。原因は俺が不機嫌になるから。
お互いの中核の脆い部分には触れず、俺たちは差し障りのない会話を空洞の上に重ねていく。柚子の笑顔は本物だろう。俺も柚子と一緒にいられることはたまらなく嬉しい。ただ、表面だけをなぞるだけのやり取りは冷たい隙間風に弱く、俺の心はふとした瞬間に冷たく凍えてしまう。

「マネージャーが自殺してから初めて出すアルバムだよね。このために全曲作り直したらしいよ」
「詳しいな」
「……友だちが、アヤが好きらしくて」

柚子が誤魔化すようにリモコンを弄り始め、音量を不自然なくらい大きくした。こいつは本当に分かりやすい。その友だちってのは、闇金で働くチンピラの男のことか、それとも先日家に上げたもやし野郎のことか。

昔は違った。互いに思ったことは何でも話したし、裏表のない好意を確かめ合い、安心できた。世界で一番信用出来たし、アニキを除けば世界で一番好きな相手だと確信していた。誰よりも守りたいと思っていたし、柚子も俺のことを誰よりも慕ってくれていた。
丁度俺が働きだした頃からだろうか。柚子はバイトに打ち込み、男の友人も作り、俺に小さな秘密を抱くようになった。思春期にはよくあることだと周りは言うが、そんな言葉は何の理由にもならない。俺たちには両親がいない分、人一倍兄弟の絆は強いはずだし、それを社会的地位や自我と外の世界への興味を得た瞬間捨てるなんて、そんなこと絶対納得なんて出来るもんか。

面白くなくて顔をしかめたその時。

テレビ越しのはずなのに、妙に存在感のある女性の声がリビングに広がった。

澄んだ声。深みのある響き。滲み出す感情。それら全てがダイレクトに心を揺さぶり、俺は呼吸を忘れた。

「ーー同じ時間を過ごしても……」
「ーーまるで私はひとりきり」
「ーー半透明でちっぽけで……」
「ーー生まれてこなければ良かったとさえ……」
「ーー暗く冷たく、息が苦しい……」

まるで俺の心を完全に見透かしたような言葉。職場で一定の距離を保つアニキも、危ない話題は避けて柚子も触れなかった感情を探り当て、掘り起こす。俺の心の奥底にあるじゅくじゅくに柔くて弱い部分と、そして。

「……ユキ兄、ユキ兄!」

ふと柚子の声で我に返る。視界に映るのは、白い天井と、今にも泣きそうな柚子の表情。背中が妙にジンジンする。

「ユキ兄、どうしたの、急に倒れたけど、大丈夫? 具合悪い?」
「……柚子」

彼女の瞳には、弱々しい俺が真っ直ぐに映っている。そのことに妙に安心して、俺は右手を上げて、柚子の頭を胸に抱き寄せる。

「悪い、びっくりさせたな。ちょっと目眩がしただけだ」
「本当に? びっくりしたよ、もう。働き過ぎじゃない? 本当に平気なの?」
「……ああ」

柚子の熱を感じながら、ふともう寒さは感じないなと考える。やっぱり心の隙間を埋められるのはこいつだけだ。ぎゅっと腕に力を込めると、柚子がきょとんとこちらを見つめた後、擽ったそうに笑った。




アヤの言葉が頭から離れないまま、夕食を終え、寝る支度を進める。柚子は最後まで俺を心配して早く寝るよう、珍しくうるさく付き纏った。そんな熱量も心地よかったが、受験勉強やらで疲れている彼女は俺より先に参考書を抱きしめながら寝落ちしてしまう。馬鹿真面目で愛らしい妹の頬に1つキスを落とし、ベッドへ運んでやる。普段ならそのまま一緒に微睡むところだが、今日の俺はリビングへ戻り、パソコンを開いてアヤの曲を何度も再生していた。

「ーー暗闇の中息が苦しい……」
「ーー大切なものを失うくらいならいっそ、壊してしまおう」

「おや、ユキ。まだ起きていたのか」

ふと我に返ると、目の前で、俺よりも激務をこなしたであろうアニキのネクタイを緩める姿があった。

「……帰ってたのかよ、アニキ」
「君にしては随分ぼんやりしていたね。疲れているなら、寝た方が良いんじゃないかい」

家のアニキは少しだけ柔らかく、タメ口でアニキと呼んでも怒られない。それでも依然、距離があるのは変わらない。俺は少し迷う。アニキも俺も疲れている。余計な話はせず、眠りについた方が良いのは重々承知の上だ。だけど。

「アニキ。疲れてるとこ悪いけど、少し相談いいか。……柚子のことで」

妹の名前にアニキが動きを止める。

「柚子が、どうかしたかね?」

狙い通りだ。俺は唇を湿らし口を開く。

「最近、あいつ様子がおかしいんだよ。怪しいバイトにうちこむわ、ハッキングして遊ぶわ、挙げ句の果てには休日にクラスメイトの男を家に連れ込むし、それを指摘しても妙に反抗的なんだ。あいつのアニキとして不安だ。取り返しのつかないことになる前に、柚子のやんちゃをおさめたい」

アニキはネクタイを外すとクルクル丸めながら椅子に座り、長く息をつく。そして、少しの沈黙の後、理知的な光を瞳に宿らせる。

「……その友人の名前は分かるかい?」
「確か、匪口と言ったかな」
「そうか。では、明日午前中は休んでいいから、早乙女金融の方に再度釘を刺しに行ってくれ。あそこの社長は物分かりが悪い方ではないが、若い衆がおいたをするかもしれないからね。その匪口くん……に関しては、私が調べておこう。ハッキングが出来るなら、頭が回るだろうから、そういう人間を丸め込むには相応の準備が必要だからね」

スラスラ答える間も、アニキの頭の中では既に何十もの計略が組み立てられているのだろう。この後の展開がどう転んでも、最適解を選べるように。

「それと、柚子に対しての対応だが。受験が終わり落ち着いたら彼女にルールを与えなさい」
「ルール?」
「毎日、その日の予定を報告すること、予定が終わったら連絡を入れること、こちらの電話には必ず出ること。そして、嘘はつかないこと」

非常に簡単な約束事だ。俺は少し躊躇った後「何のために?」と問いかける。
それに対してアニキは、面倒臭そうな顔を一切浮かべなかった。

「彼女にもう一度、善悪や家族の大切さを認識してもらうための一種の躾だよ。なに、子どもでも守れる簡単なルールだ。理不尽なものや難しくて守れないものは何一つ入れていないよ。彼女に合意させた上で、しっかり実行しているか、毎日確実にバックチェックをするんだ。守れたら褒めて、そうでない場合は教育と罰を与える。彼女のしている行為がいかに私たちを心配させているかを逐一説明し、反省の色を見せなかった場合はお仕置きを与えなさい」

頭の中でアニキの説明を噛み砕けば噛み砕くほど、口の端が釣り上がるのを抑えられない。

「……さすがアニキだ」

アニキの教育方針は表向き、自主性を重んじたものとなっている。だから、柚子が自分で決めたバイトに対して口を出して無理やり辞めさせるのは筋が通らない。ましてや俺たち自身が裏社会の人間だ。女が裏社会に足を突っ込むのは危ないという論理も、早乙女社長が「デスクワークが中心だ」と一言言ってしまえば、強い反論は見つからない。

そこで、家族として安全を確保するために簡単なルールを設定する。小学生でも守れるルールだ、柚子も違和感なく受け入れるだろう。けれど、実際に運用すると、それは彼女の行動範囲を狭める鎖になる。
毎日、予定を正直に伝えれば、俺は「兄として」「常識の範囲内で」怪しげなバイトの仕事内容に対して「心配」をする。きっとそれは彼女にとってのストレスになる。ストレスを減らすために彼女が取る選択肢は2つ。バイトを減らすか、嘘をついて通い続けることだ。
かと言って嘘を伝えたところで、情報屋の俺たちには彼女の行動は筒抜けだ。もっとも、アニキの「嘘はいけない」という教育が刷り込まれた柚子には、まともな嘘1つつけないだろうが、もし俺たち兄弟に対して嘘をついた日には。

それに付け込んでしっかりと体に覚えこませてやるとしよう。俺たち兄弟を裏切ったらどうなるか。恐怖と羞恥と罪悪感を使って、徹底的に。

「そうやって教育していけば、柚子も自然と更生していくってわけか。考えたもんだな」
「柚子は大事な我々の家族だ。危ない道に進むのを黙って見ていられるものか。可能な限り、自分で気付いてもらうよう仕向け、それでもダメな場合は更生措置を取る。まあ、それはあくまで最終手段だが」
「俺たちには、その権利と責任があるもんな」

望月信用調査では、アニキは上司だ。商材が情報ということもあり、あまり多くを語らず、俺は手足として動くに過ぎない。

けれど、柚子が絡む時は、アニキは家長として、長男としての顔を覗かせる。仮面を外し、その頭脳の一端を共有してくれる。家族として同じ方向に向くことを許してくれる。それは、今の俺が渇望しているものの1つであり、家族の絆を確かめる唯一の方法だ。

「柚子を危ない道や人間から守るのは、アニキとして、家族としての俺の義務だよな、アニキ」
「ああ、そうだな」

アニキの肯定に胸を撫で下ろす。そうだ、ちょっかいを出す人間から柚子を守ることは何も悪くない。俺は何も間違っていない。
元の兄弟に、幸せな生活に戻るためには、柚子の躾直しが必要だ。

最近生意気だからもしかしたら多少は反発するかもしれない。けれど、妹の抵抗なんてたかが知れている。兄の威厳で押さえつけて、ちゃんと「教育」すれば、柚子だっていつかは分かってくれる。裏切るかもしれない他人なんかよりも、兄弟のほうがずっと安全で信用できるって。
それでもなお、俺たちの元から離れたら。ふと掠めた考えが冷たい風と共に背中を撫でる。

「ーー大切なものを失うくらいならいっそ、壊してしまおう……」

アヤの歌の一節が脳裏に蘇り、俺は口の端を吊り上げる。

「……そうだよな」

多少壊してしまったとしても、失う寒さに震えるよりは、きっとずっとましだ。
寝室へ向かいながら、俺は仄暗い感情を探り当て掘り起こしたアヤの歌のメロディを口ずさむ。ドアをそっと開けると、何も知らずに眠りこける、妹の…….愛する妹の無防備な姿があった。彼女が昔のように俺の元へ戻ってくる夢の甘美さに、脳の奥がじんわりと酔いしれた。

(20190602)

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