子犬のワルツ

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そんな低い声とともに肉壁に真正面からぶつかる。ユキ兄かと思い身を縮めるが、顔を埋めたのは、派手なブルーのスーツであってユキ兄の冬物のコートではない。
顔を上げると、ニヤニヤと凶悪に笑う化け物の姿があった。

「随分楽しそうな鬼ごっこをしていたが、この勝負、我が輩の勝ちだな?」
「……追いかけていたのは私だけど」
「違うぞ。我が輩が貴様に追いかけさせていたのだ」

両手を広げる彼の後ろには袋小路しかない。後ろからはもう走る必要がないと断じたのか、ゆっくりこちらに向かって歩いてくる男たち。これは私1人じゃ逃げ場がない。顔を青くし化け物の男の服を掴む。

「あんたのせいで逃げ場を失ったじゃない! なんとかしなさいよ」
「ふむ、なぜ我が輩がそんなことをせねばならん」
「あんた、変な虫に私を見張らせて、車にも乗って私を尾行したってことは何かしら用があるんでしょ! ここで捕まったら果たせないわよ!」
「ふむ。用はあるにはあるが、そんな態度だと助ける気が失せるな」

化け物が冷たい表情で視線を流し、私は怒りのあまりに顔が赤くなるのを感じた。この男は、私を意図的に詰みへと追い込んでおきながら、命乞いをさせようというのか。何て悪趣味なんだ、性悪にも程がある。地獄に落ちろ。
なんて言葉は飲み込み、屈辱に体を震わせながらも、背に腹は代えられない。

「助けて」
「助けてください、ネウロ様、だろう?」
「〜……っ!」
「助けてください、ご主人様の方が良いな」
「悪化してる!」

壁面ギリギリでこれ以上下がる場所はない。こうなったらこんな白昼堂々住宅街のど真ん中で銃撃戦なんてしたくないけど、やるしかない。太ももに括り付けていた銃へと手を伸ばす。

「やれやれ。躾がなっていないぞ」

耳元に溜め息が1つ落ちる。その瞬間、化け物が小声で「イビルモスキート」と呟いたのが聞こえた。
ぞわりと背中を伝う寒気……癪気と呼べば良いのだろうか。空気がもわりと膨らむと、背後から緑色の巨大な蚊が飛び出し、男たちの顔面に飛びついた。

「ひっ!」

絵的にかなりグロい。しかし、息を飲み込んだのは私だけ。襲われた男たちのほうは、ぴくりとも動かない。

「何、あれ……」
「イビルモスキートは、魔界の蚊だ。しかし、奪うのは血ではなく、その者の時間だ。我が輩の活躍を見られたくなかったのでな。少し停止してもらうことにした」
「はあ……」
「説明は後だ」

非現実的すぎて頭に入ってこない私の体を米俵のように抱える。声を上げてしがみつくが何のその、行き止まりとなっていた壁をつま先だけで軽々と駆け上がる。ありえない光景とシチュエーションの連続に私は体を硬くした。

「しっかり捕まってないと、落ちてメロンのように潰れるぞ、ほれ」

化け物は楽しそうに笑い、腕の力を緩める。私は不本意ながらぎゅっと彼の首にしがみつくと、苦手なジェットコースターをやり過ごすように、早く終われとひたすら祈った。
やがて浮遊感が落ち着き、私は目を開ける。アパートの屋上に下ろしてもらえたらしい。砕けた腰で彼の腕から抜け出すと、そっと下を覗き込んでうっと呻いた。イビルモスキートとやらで足止めを食らっていた男たちと目が合い、追いついたのであろうユキ兄と共にアパートの入り口に突入していく。

「さて」

ふいにガシャリと響く重い錠の音。見上げると、入り口の閂を化け物が閉めた後だった。

「とんだ邪魔が入ったが、早坂柚子、会いたかったぞ」
「私はそうでもないし、あんた、余計な真似をしてくれたわね。こんな屋上なんてますます逃げ道ないじゃない」
「あのまま立っていても捕まっていたろうな」

彼に反論する言葉もない。まあ正直、助かったことは助かった。彼がいなければ、そもそも車内から逃げ出すチャンスも袋小路から脱出する手段もないままだったから。
まあ、その人間離れした能力があるなら、もっとうまく逃して欲しかったけれど。

「それで、何の用なの?」
「ふむ。飼い主を失って暇しているだろう猫の手を借りに来てやろうと思ってな」
「何それ」
「求職中なのだろう? ならばうちに来い。それ以外と来たら、大学でつまらなそうに授業を受けるか、粗野な男と色気のない食事を摂るか、怪しげな男から逃げ回る日々を過ごすくらいしかやることがないのだ。構わないだろう?」
「悪意のある言い方ね」

化け物の肩に止まる気持ちの悪い虫を通して見たんだろうか。ストーカー、とぼそりと呟くが彼は何処吹く風だ。

「やることがないわけじゃない。これから探すの」
「では、この事務所で探せばいい」
「…….別に良いけど、あんた吾代さんや私をボコボコにしたじゃない」
「別に良いなら、構わないではないか。それに、貴様のあれはただの自滅だ」
「むっ」

顔をしかめたその時、屋上の扉が激しく蹴られ、鉄製にも関わらずミシミシと軋んだ。

「ふむ。執念深いことだ。もしや、あれが貴様の新しい主人か?」
「まさか!」
「では昔の飼い主か」
「何で隷属させようとするのよ」

化け物がくつくつ笑う。

「あの目はまるで犬か奴隷を見るような目だったからな。最終的には自分たちの思い通りになると信じて疑わない」
「……うるさい」

そうだ。兄さん達の何が嫌って、私が自分自身のことを思い通りになることを疑わない様子が嫌なんだ。まるで、自分が何もできない幼子か、所有権のある物のような、冷たい目。
この状況から逃げ出して、機を見てひっくり返したい。現実じゃ、1人では逃げ出すことすらままならないけど。

「逃げる場所はないぞ」
「あんたのせいじゃない」
「貴様が望むなら、助けてやっても良い」

下から見下ろす化け物。正直こいつも信用できるわけじゃない。が、こいつの頭脳と能力は嫌という程思い知っている。信用できるとまでは言わないが、鷲尾に対する態度や事務所を手に入れたやり口を見ると、彼なりに筋は通し約束は守るタイプではあると思う。
でも、一度しか会ったことのない、しかも半ば敵対していたような私を、なぜリスクを承知で勧誘してくるんだろう?

「……何でそんなに構ってくるの?」

そう訊くと、男は無言でどこからともなく黒のパソコンをとりだした。見覚えのあるそれは、私が先日彼に突撃する時に盾がわりに使ったパソコンだ。

「……それ」
「ハッキング程度、我が輩でもできるが、今は目は足りても手が足りんのだ」

厳重にロックをかけ、証拠もそれなりに隠滅してあるにも関わらず解析されたのか、と私は渋い顔をする。彼の守備範囲はかなり広いようだ。

「事務所にいる我が奴隷人形弥子は今のところ隠れ蓑とページを捲るくらいしか出来ない。情報を集め整理する人間が必要なのだ」
「嫌だと言ったら?」

男が歪み始めた屋上のドアの鍵へと手を伸ばす。私はその手をばしんと振り払った。

「別に嫌とは言ってないでしょ」
「そうか。嫌じゃないのか。では選べ。今すぐ決めろ。我が輩に服従するか、あいつらに捕まるか」

言葉尻を捉えては自分の有利なように物事を進めていく。ああ、彼には口でも力でも、本当に敵わない。

「……その前に教えて。あんた、一体、何なの? ただの人間じゃないんでしょ」
「我が輩は魔人、脳噛ネウロ。女子高生探偵桂木弥子を隠れ蓑に主食である謎を求める」
「謎を食べる、魔人?」

聞いたこともないと眉を潜めるが、魔人ネウロは顔色を一切変えない。

「そうだ。貴様の社長が殺された事件を解いたのも、謎が放出するエネルギーを食すため。だが、まだ地上に出て日が浅く、手元には隠れ蓑のヤコのみ。ハッキングや射撃の腕がある貴様が必要なのだ、柚子」

ネウロがそう言った瞬間、ピリリと背中に甘い電流が走った気がした。

兄さん達は、私のことを必要とせずむしろ危険から遠ざけようとした。役になんか立たなくて良いと言った。
匪口と一緒にいたのはとても楽しかったけど、一緒にいたのは互いに楽しかったからだ。仕事や能力はある一定基準を満たしていれば関係なかった。
社長や吾代さん達は私を可愛がってくれたけど、むしろ守らなければと負担をかけさせてしまっていたように思う。

彼だけが、本気の私とぶつかり、力量を把握した上で、必要と言ってくれた。ずっと努力して来たのは兄さん達のためだけど、そこまでの努力がようやく認められた気がした。

私は少し考える。これは悪くないチャンスだ。自分の力量を真の意味で把握し認めた男の元で働くのは、きっとやりがいがある。
それに、彼は頭脳も能力も、生態すら規格外だ。
そんな彼のそばにいれば、兄さん達の襲撃から守ってもらえるだろうし、上手くいけば、息苦しい膠着状態をひっくり返せるかもしれない。

「まだ駄目か? それなら言い方を変えよう。貴様の上司の仇を取ってやったろう。その借りを今返すのだ」
「……あんた、本当に逃げ道をとことん塞ぐのが上手いのね」

完敗だ。私は溜息をつくと立ち上がり、ネウロをじっと見つめた。

「私は、早坂柚子」

彼の背中越しのドアの蝶番はもう緩み切って、今にも破れそうだ。

「今はもう、何者でもなくなったけど、しばらくの間匿ってくれるなら、とりあえずあんたの狩りを手伝ってあげてもいいわ」
「狩りとは人聞きが悪い」

伸ばした手を握られ、ぐいと引き寄せられる。ネウロがイビルブラインド、と囁く。その瞬間、ドアが蹴破られた。

「柚子」

黒スーツの男達と共に、ユキ兄が入ってきた。心臓が跳ねる。彼がこっちを見た気がした。

「……どこへ行った?」

ユキ兄が目を凝らすようにこっちを見ている。そして、ゆっくりと視線をずらし移動した。
私はここにいるのに、ユキ兄にはまるで見つけられていないみたいだ。

「魔界の道具を使って、我々の解像度を大幅に下げた。今の我々は、簡単に言えば極端に目立たない」
「何それ」

話している私たちをよそに、彼らはビルの下や周辺を探し始める。

「小声で話さなくてもいい。魔界の道具は人間界とは次元が違う。よっぽど執念深いか、よほど勘が鋭いかのどちらかでないと、この道具は無効化できない」
「ネウロ」

ゆっくりこちらに近づいてくるユキ兄を見て、私は顔をひきつらせる。

「執念深くて勘の鋭い人に対してはどうなるの?」

ネウロは答えない。一瞬の間の後に私の首根っこを掴むと、くるりと背を向けた。

「行くぞ」

あ、逃げるんだ。
ドアに向かう私たちの前に、久兄が現れる。

「どうだ、ユキ」
「……だめだ、いない。ここ以外に逃げ道はないはずなのに」
「逃げられたのか? あんな小娘1人に、大の大人が?」
「……悪い」
「いや、いい」

はあ、と溜息をつく。時間を無駄にしたな、と呟くその顔に色はない。私はぞっとして、思わず足を止める。言外に匂わす役立たずという侮蔑と落胆の色。久兄はこんな風にユキ兄を下に見るような人間だっただろうか。
ユキ兄は静かに俯き、コートに身を埋める。私に薬物を盛り嗜虐的な笑みを浮かべていた兄さんと同一人物とは思えない。

「……ユキ兄」

少し誤解していたかもしれない。本当に恐れるべき人間は、もしかしたら。

「行くぞ。この道具は時間があまりもたない」

ネウロが囁き、私は慌てて彼の後を追う。でも、どうしてもユキ兄が気になり後ろをちらりと振り返る。ユキ兄の背中は小さく見えた。

「逃げていた割には後ろ髪を引かれていたな。今からでもあいつらに尻尾振った方が良いではないか?」
「しないよ、そんなこと」
「ふむ。人間とはよく分からん」

私は無言で返す。自分の気持ちもたまに分からなくなるのに、家族を守ってきた格好良くて強い久兄の見せたユキ兄への冷たい表情だったり、残虐性も併せ持つユキ兄が弱々しい表情を見せたり、そういうものを全て理解できるわけがない。
ただ、いつかは理解し合い、元の仲の良かった兄弟妹に戻りたいと願っている。
手遅れでないと良いのだけど、という弱音はひとまず心の奥底に押し込み、私は話題を変える。

「それにしても、道具を使ってコソコソ逃げるなんて意外ね。あんたのことだから、訳のわかんない能力を使って派手に逃げるのかと思った」
「何を。我が輩は平和主義なのでな」
「何それ冗談?」
「我が輩、人は殺さないし、なるべく殺させない。貴様と違ってな」

それは薄々感づいていた。妙な能力を持っている割に、殺人犯や我々社員との戦いで致命傷を一切与えないよういなしていた彼を。さっきの袋小路でも、私に銃を使わせないために魔界道具を使ったのだろう。

「まあ、喜べ、我が輩が飼ってやるからには、その手癖の悪さも徹底的に躾直してやろう。他人の犬を調教し直して自分のものにするのも悪くない」
「あんた、やっぱり平和主義って嘘でしょ」

呆れたように溜息をつく隣で加虐的な笑みを浮かべるネウロ。正直、こんな男に会ったことは今まで一度もない。
でも、彼の頭脳と能力のおかげで、うまく逃げられ、こうして立っていられるのは間違いない。
彼の元にいればきっと、この鬱々とした状況を打破する鍵を、手に入れられる。そんな期待と確信を抱く私の髪を、この季節にしては珍しくさわやかな風が撫でていった。

(20190519)

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