子犬のワルツ

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その日の晩、帰宅した久兄は私を見る度、安心したいような怒ったような顔をして拳を握りしめた。叩かれても仕方ない。来たるべき衝撃に備えるが、久兄は深呼吸を何度かすると、「具合はどうだい」と優しく尋ねた。

「大丈夫。久兄、あの、迷惑かけて本当にごめんなさい」
「全くだ。これに懲りて、もうお転婆はするんじゃないよ。あんな思いは二度としたくない」

久兄が細く息を吐く。私は項垂れたまま「はい、もうしません」と言った。

「アニキ」

キッチンの奥で食事を作っていたユキ兄が顔を出す。

「早いな、今日は」
「様子を見に寄っただけだ。すぐ職場に戻らねば」
「飯くらい食ってけよ。すぐ出来るよ」
「いや、大丈夫だ。それよりユキ、彼女の面倒は頼んだよ」

ユキ兄は短く分かったと返すが、一瞬浮かべた寂しげな表情を私は見逃さなかった。多分、私のせいで久兄の仕事を増やした。ますます顔を上げられない。

「それじゃ、柚子、ユキの言うことをよく聞くんだぞ」
「はい」

久兄は「いい子だ」と頭を撫でると、足早に部屋を出て行った。あっという間の滞在だった。正直、もう少し怒られると思っていたし、怒られるべきだ。想像以上にあっさりした対応が腑に落ちない私はじっと久兄の出て行ったドアを見つめる。

「飯出来たぞ」

ユキ兄の持つお盆の上では、お粥がほかほか湯気を立ち上らせている。ふと、風邪を引いた時にユキ兄が看病してくれた幼い日を思い出す。

「ユキ兄、仕事はいいの?」
「おまえの面倒を見るのが、今の俺の仕事だから」

ベッドの端に浅く腰掛け、膝の上に盆を載せる。

「その右手じゃ箸持てねーだろ。口開けな」
「え、やだ、ユキ兄、恥ずかしいよ」
「いいから、ほら」

まるきり子ども扱いのユキ兄に頬がじんわり熱くなる。でもあんまり駄々をこねるとかえって困らせてしまう。羞恥を堪えて開口すると、ユキ兄がスプーンをゆっくり口元に運んだ。こうも甲斐甲斐しく世話してもらうと、自分が無力な雛鳥にでもなったような気分になる。でも、微かな塩味と玉子の風味は身体に染み渡るようで、とても美味しかった。

「おいしい」
「そっか、よかった」

ユキ兄がほっとしたように微笑し、すぐ2さじ目を掬う。回数を重ねていくごとに私はこの状況に少しずつ慣らされていく。

「その右手じゃ、銃も持てないな」

しばらくしてからユキ兄はそんな言葉を呟く。私も釣られて折られた右手に目を落とす。あの男の狙いはまさに武器を持つ利き腕の無効化だったんだろう。左手でも撃てるよう練習したから大丈夫。そう言いかけて、止めた。もう当分いい子にすると決めた。余計なことを言ってユキ兄を心配させたくない。

「右手、いつ頃治るのかな」
「右手は1ヶ月だと。ただその他の怪我や暴行を受けたショックもあるから、絶対安静な。薬もちゃんと飲めよ」
「はーい」

黄色と白の錠剤が4種類、無造作に置かれている。右手が使えない私のために、生身の状態で硝子の器に入れてある。鎮痛剤だろうか。私は何も聞かずに左の掌を差し出すと、その上にユキ兄は無言で錠剤を置いた。口の中に放り込み、コップの水で流し込む。薬が嫌いなわけでは決してないが、数が多いと飲み込むのは苦しい。顔をしかめながらもなんとか飲み込むと、ユキ兄は微笑んで「よくできました」と頭を撫でた。

「もう、子ども扱いして」

ユキ兄は黙って笑うだけ。私は頬を膨らませるが、内心は穏やかなやり取りが続いていることにほっとしていた。




その日以来、ユキ兄は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。ご飯を食べる時もお風呂に入るのも手助けしてくれる。最初は恥ずかしかったが、小さい頃世話してもらったこともあったからか、直ぐ慣れた。それをしている間はユキ兄の機嫌が良かったということもある。
3日後、久しぶりに部屋の中を歩き回った時、筋肉がぷるぷる震えて転んでしまった。情けなさに顔を歪める私に、仕方ないなと言いつつ肩を貸したユキ兄はどこか嬉しそうだった。

早乙女金融には、ユキ兄の方から怪我をしたからしばらく休むと伝えてくれたらしい。私の方からも直接伝えたかったが、携帯電話がないので仕方ない。駄々をこねてユキ兄の機嫌を損ねるような真似もしたくない。同じ理由で、斉藤銃一を始末したのか否かも訊けていない。でも、私の看病のためとは言え、ユキ兄が久兄から離れていることや、斉藤銃一本人が死にたがってたことを踏まえると、無事な気はしない。結局、ユキ兄に外の世界の話は一切できないまま、2週間があっという間に過ぎた。

右手の調子は不自由ではあるが、当初のような激しい痛みや熱はもうない。違和感はまだ残るが、骨自体はあと数週間で元通りにくっつくだろう。ただ、体の調子は全般的に悪いままだ。朝起きた瞬間から全身が怠く、目眩もしばしば巻き起こる。胃が重くて、食欲が湧かない。夜には体調が回復するが、朝起きると再び具合が悪くなっている。風邪ではない、胃腸炎とも少し違う原因不明の体調不良をユキ兄に訴えたら、「疲れがぶり返したんだろ」とベッドに押し戻され、目を閉じる。考える体力も逆らう気力も今はない。

そうやってだらだらと日々を過ごし、3週間目が終わりを迎えようとしている。右手の包帯は取れたが、体力は一向に戻らない。兄さん達以外の人とも随分話していない。でもそれに対して最早焦ることもだんだんなくなってきた。ユキ兄は最近機嫌がいいし優しい。久兄も帰って来た時はずっと笑顔で対応してくれる。以前抱いた違和感はもう感じない。外には出られないけど、まあ一生続くわけでもないだろうし、疑心暗鬼になっていたあの頃よりずっと「安定」している。捕まって暴行を受けたあの地獄のような時間に比べたら天国だ。家にいれば安全だし、私がいい子にしていれば、兄さん達も怖いことはしない。

多分、今が一番「幸せ」だ。
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