子犬のワルツ

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「ただいま」
「おかえり、ユキ兄!」

ユキ兄が帰宅したのは、23時過ぎだった。疲れ切っているユキ兄を抱きしめると、その体は冷え切っていた。

「冷たいね。ご飯いる? ビーフシチュー作ったんだけど、あっためようか?」
「サンキュー、頼むわ」

ユキ兄の笑みがぎこちない。私はキッチンに一直線に向かい、鍋に火をかける。後ろではユキ兄がコートを脱ぎながら、テーブルの上の菓子の箱を注視していた。

「何これ」
「ああ、お土産もらったから」
「誰から?」

ユキ兄の声はいつになく低い。私は少し答えに迷うが、普通に答える。

「友だち」

無難な答えのはずだが、兄さんの機嫌は直らない。シンクの上で乾かしている2名分の深皿を睨みつけている。

「家に来たのか?」
「え、まあ、その友だちが」
「ふうん。手作りでも作って食べさせてやったわけかよ」

皿を鍋の近くに置いてじりっと後ずさると、ユキ兄は一歩近づいた。

「友だちだから」
「柚子」

ユキ兄の右腕が、私の左腕をがしりと掴んだ。痛いほどに力がこもっていて、私はどこかでユキ兄を怒らせてしまったらしいと気付いた。

「そいつ、男か? 体育祭の時お前にちょっかいだしてたあのもやし野郎か?」

その剣幕に私は咄嗟に上手い言い方も思いつかず「そうだけど」と答える。

「縁切ったんじゃなかったのかよ」
「流れで仲直りしたというか」
「許したのか?」
「だってあいつ、」

そんなに怒ることだろうか? 今まで友だちがいなかったし、こんな風に家に呼んだことがなかったから、何で怒られているのかもよく分からないし、いつもと違う雰囲気が正直怖い。納得できそうな理由を必死にまくし立てる。

「私だって家にあげたかったわけじゃなかったけど、今日誕生日だっていうし、プレゼントもらったからその分返さないとだし、ハッキングの腕は超一流だし、え、と、だから」
「柚子」

ユキ兄の口調は荒い。

「俺もアニキもそんなことしてくれなんて頼んでねーだろ。危ないことしてねーで家で大人しく俺たちの帰りを待っててくれた方がよっぽど嬉しい」
「でも、」
「それともおまえが出入りしてるサラ金のアホどもがお前にそんなことさせてんのか?」

どきりと心臓が跳ねる。早乙女金融で働いてることは、ユキ兄達には実は内緒だった。ユキ兄が口の端をゆがめた。

「知らないとでも思ったか? 俺たちは調査会社に勤めてんだぜ。それに早乙女金融っつったら、こっちの世界じゃそこそこ名が知れてる。俺たちに隠し通せると本気で思ってたのか?」
「だって、心配させちゃうと思ったから……」

心配させたくないっていうのは本当。でも、隠れて危ないことをやっていたのも事実だ、そこを指摘されると痛い。私は縮こまり、小さな声でごめんなさいと呟いたが、ユキ兄の機嫌は直らない。

「悪いと思うなら、もうちっと安心させてくれ。ただでさえ忙しいんだ。余計な心配かけてねーで、大人しくしてろ。男なんか軽々しく家にあげんな。何されても文句言えねーぞ」
「匪口程度、どうにでもなるよ」

安心させようと口を挟むが、ユキ兄は鼻で笑った。

「そうかよ?」

ユキ兄が一瞬ブレた。一瞬の浮遊感ののち、キッチンの壁に体を押し付けられる。

「じゃあどうにかしてみろよ」
「ユ、ユキ兄」

ユキ兄から暴力なんて一度も向けられたことはない。もがくが、兄さんの腕はビクともしない。どうでもいい人間だったら股間を潰すなり頭突きをするなり対処できるけど、ユキ兄にそんなことできるわけがない。

「簡単だろ、嫌なら振り払えよ、ほら」
「ごめん、なさい……」

普段は私に甘いユキ兄の手がギリギリ締め付ける。こんなに怒ったユキ兄は初めてかもしれない。私は恐怖で頭が真っ白になった。

「私が悪かったです、ごめんなさい……許して」

兄さん達の前でだけは、感情が幼子のように制御できなくなってしまう。目の奥がカッと熱くなりじわりと涙が溢れるが、溢れる雫を拭うことすらできやしない、そんな私をユキ兄がじっと睨みつけた後、ふっと手の力を緩めた。

「どうにもなんねーんだよ。おまえは女の子でちっぽけだし、おまえに何かあったら、俺は……」

ユキ兄が私の頭を掻き抱く。厚い胸板に私は顔を押し付けた。

「ごめんなさい。もう、私たちの家に軽々しく人をあげたりしないから」

しゅんと答えると、ユキ兄がおずおずと私の手首に触れた。強く握られた部分がくっきり赤くなってる。

「痛かったか?」
「うん」
「ごめんな」
「ううん。私を思ってのことだから」

ユキ兄の手は止まらずさすり続けてくれている。
もう、怒ってないかな? 大丈夫かな? 私はおずおずと口を開いた。

「ねえ、ユキ兄。久兄は私が、早乙女金融で働いてること、知ってるの?」
「ああ」
「なんて?」
「嫌に決まってるだろ。あんな狼の巣窟。でも、社長とは話を通してあるし、うちのバカ社長が、少しくらいのびのびさせたほうが可愛いし成長するからって」

あの丸投げ上司が? 信じられない。でも兄さん達を振り回してばかりで憎んでたけど、もしそれが本当なら、 生まれて初めて、少しだけ感謝してもいいかもしれない。

「だから大目に見てやってるけど、もし危ないことしたりだれたりしたら……その時は俺に従ってもらうからな」

ユキ兄の声が硬くなる。私は慌てて「大丈夫だよ、ユキ兄」と返事した。それに安心したのか、ユキ兄は再び私を抱きしめてくれた。

「柚子、おまえはずっとここにいてくれよ」
「当たり前じゃん」

私もユキ兄の背中に手を回す。ユキ兄の匂いに安心する。やっぱり私の居場所はここだけだ。兄さん達以外に目を向けるなんて考えられない。
でも、久兄はどこにいるんだろう。もう一週間も会っていない。今日のユキ兄もそうだけど、久兄も様子がどこかよそよそしい気がする。私たち兄弟って、こんな感じだったっけ。芽生え始めた違和感は無視していいものか、私には判断出来ない。
コンロの上の鍋がコトコト沸騰をする音が、寒々しいキッチンに響いた。

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