子犬のワルツ

□6
2ページ/2ページ

「何だよ、それ」

 それに気付いた途端、怯えが苛立ちへ摩り替わっていく。まあそりゃ、兄さん大好きな彼女と一緒に居たい気持ちもわかるし、俺も尊重してやりたいけど、そんなあからさまに妹を囲うのは兄妹の域を超えてるんじゃないか? 友だちをいるのを何処か責めるような表情で言及するのも、彼女の兄弟愛を利用して良いように閉じ込めているようにしか見えないし。

「そんなのってアリ? あんた、ただのこいつのアニキだろ。彼氏でもないのに、そこまで干渉されるおぼえは」
「ただの、じゃない」

 反感のこもった声に、思わず口を閉じる。俺を射殺さんばかりの目で見つめているのは、兄貴じゃなく、妹のほうだった。

「ユキ兄はただの兄さんじゃない。私の、数少ない大切な人だよ。悪く言ったら、あんたでも許さない」

 喧嘩して怒っている、というような生易しいものではない。憎しみと嫌悪を前面に押し出し俺を激しく睨み付けている。それは、初めて俺が彼女の勉強を邪魔して喋り続けたときに浮かべる表情にも似ていた。
 頭がくらくらする。呼吸の仕方をうまく思い出せず、酸素が充分に行き渡らない。まるで、初めて会ったときに戻ったような、今まで共にしてきたことが全て台無しになったような、そんな錯覚を覚える。
 ……いや、錯覚なんかじゃないのかもしれない。

「俺は?」
「は?」
「俺は、そのおまえの大切な人の中に入ってんの?」

 だって彼女は、きっと俺なんか、どうでもいい。

「入ってるわけないじゃん」

 ほら、彼女はこんなにも簡単に即答する。

「私の大切な人は久兄とユキ兄だけだよ」

 柚子の手が兄さんの手をぎゅっと握るが、その手は震えているようにも見えた。

「ふーん」

 腹の底から熱がじわじわと湧き上がってくる。抑えようとすればするほどそれは彼女の行為を糾弾するかのようにのた打ち回る。腹が立って仕方ない。
 たっぷり息を吐き、考える。
 柚子を傷つける言葉を。
 顔を上げる。
 口の端を吊り上げる。
 そして哀れむように、馬鹿にするように、せせら笑った。

「おまえの世界って随分狭いんだな」

 ぴり。空気が少し、張り詰めた。だが彼女は大好きな兄さんに癇癪もちなところを見せたくはなかったらしい。いつものように強気で突っかかってくるようなことはなかった。

「狭いよ」

 平静を装って、柚子が言い放つ。

「だから何?」
「別に。ただ、可哀相な奴だと思って」
「どういう意味よ」

 彼女のアニキは黙ったまま、興味深さすら覗かせて俺を見つめている。口を開く寸前、ふと小さな疑問が胸を掠めた。
 自分の大切な妹を傷つける言葉を吐くことは目に見えているのに、それでも止めないのは――なぜだ?

「“私の大切な人は久兄とユキ兄だけだよ”なんて言えるのは、おまえの世界にその二人しかいないからだ。おまえが本当に兄さんたちのことを好きだからってわけじゃない。もっと広く世界に目を向けて、いろんな奴と関わってみろよ。あっという間に目移りするから」
「目移りなんかしない!」
「いや、するって」
「しない!」
「するよ」
「いい加減なこと言うな!」

 癇癪を起こし、柚子の髪が振り乱れる。

「私が、兄さん以外に興味を持つなんて、ありえない!」

 どこか泣き出しそうな風を漂わせながら怒る彼女とは反対に、俺は口の端を吊り上げ「ふーん?」と返す。そう、その言葉を待っていたんだ。

「でもさ、おまえ、」

 わざとらしく首をかしげながら、俺はゆっくりこう言った。

「現に俺に興味、持ってんじゃん」

 そのときの柚子の表情は見物だった。意味が分からないと言いたげにきょとんとし、考え込むように眉を潜める。それから考え込む自分にはっと気付いたのか、慌てて「持ってない!」と反論した。

「いい加減なこと言うな、私があんたなんかに興味を持つわけない!」

 叫びながらちらりと自分のアニキを縋るように見る。違うんだよ、私は本当に兄さん達だけが好きなの。こんな奴、どうだっていい。本当だよ、ねえ、だから私のこと嫌いにならないで。
 そんな感情がありありと伝わり、苛立ちが再び頭をもたげる。自分の気持ちに蓋をして、普段のプライドの高さをかなぐり捨ててそんな風に縋るなんて、そんなに自分のアニキが好きなのかよ。少しは自分の気持ちに素直になって、アニキ離れをしろ。

「ちょっとは認めろよ。そこらの人間よりは好きだろ?」
「好きじゃない! あんたなんか、そこらへんの人間と、何一つ変わらない! いてもいなくても変わらないんだから!」

 どきっと心臓が跳ねる。柚子自身も自分の放った言葉の威力に驚いているようだった。肩に圧し掛かる沈黙と周りの喧騒の温度差が、苦しい。

 いてもいなくても変わらない。

 その言葉は、何よりも誰よりも、こいつの口から聞きたくなかった。

「……あ、そ」

 俺は肩をすくめると踵を返した。一緒に過ごしてきた中で、自ら背を向けるなんて初めてのことだ。だが、今は彼女に自分の顔を見せたくなかった。

「なら、いいよ」
「え」
「俺は、そこらへんの奴らと何一つ変わりないんだろ?」

 戸惑う柚子に、興味を失ったような無機質な声を投げる。震えてしまいそうになる手はポケットに突っ込んだ。

「だったら、いてもいなくても同じってことじゃん。そんな風に思ってる奴の隣にいる意味とかまるでないしさ。だったら、他の奴らとつるんでた方がまだましだわ」

 彼女も、そのアニキも何も言わない。彼女が沈黙する理由は分かる。何を言えばいいのか分からないからだ。だが、アニキが可愛い妹の窮地を何も言わずに黙っているのはなぜだ? 勝手に超過保護なアニキというイメージを持っていた。そのイメージと今の行動にどこかずれを感じる。
 再来した違和感の正体について考えるが、思考はそこでストップする。俺は手をひらひらと振った。

「んじゃ、そういうことで、俺は疲れたし帰らせてもらうわ」

 ずんずん歩く俺の背中に「か……勝手にすれば」といつもより弱々しい声が投げられる。

「つるんでくれって頼んだ覚えはない。勝手にしなよ」
「ああ、勝手にするさ」

 俺の手ごたえのない反応に、彼女の戸惑いが更に大きくなるのが分かる。必死に言葉を探す気配すえに、柚子は「あんたなんか、」と声をあげる。

「あんたなんか。あんたなんか、」

 俺は足を速める。その先は聞きたくなかった。一方で、俺の耳は彼女の息遣いすら漏らすまいと全神経を集中させていた。
 やや強めの風が吹く。俺の髪を揺らし、グラウンドの砂が舞い上がる。遠くの木々を揺らし、ざわめきが段々大きくなっていく。

「だいっきらい」

 その途端、全ての音がやんだ気がした。髪のこすれる微かな音も、グラウンドの砂が舞い上がる気配も、さらに大きくなるであろう木の葉のさざめきも。俺はうろたえ、足を止める。次の瞬間には、世界は何事もなかったかのように動き出していた。髪も砂も木の葉も、ゆらゆらと揺れている。ただ、その音と耳の間に薄い膜があるように、どこか鈍く感じられた。
 ふと何の気なしに振り返ってみれば、そこには自分もショックを受けたような顔をして呆然と突っ立っている柚子が見えた。その隣で、悪巧みが成功したようにほくそ笑むアニキの姿も。なんでおまえがショックを受けたような顔をしてんだよ。衝撃を受けたのは俺のほうなのに。それに、“兄さん”、なんであんたはそんな風に笑ってられるんだよ。ああ、もう――

「……柚子のばか」

 不意に漏れた言葉は、自分の声とは思えないほど弱々しいものだった。

7 1ページ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ