子犬のワルツ

□工場経営の舞台裏
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 猫が小首をかしげ、小股で歩み寄ってくる。私は眉根を寄せると、手で追い払う仕草をした。


「近づかないでよ」


 それでもなお、私に擦り寄ってくるのを止めない。私は大きく溜め息をつく。


「聞こえないの? それとも痛い目に遭いたいの? 久兄に媚び売ってたぶらかしている罪を大目に見てあげているんだから、これ以上苛々させないで」


 冷たく睨んでも、猫は動じた素振りを見せない。にゃあと鳴き私の膝の上へよじ登ろうとする。私は膝を抱き寄せ猫が登れないようにすると、襟首を掴みベッドから下ろした。


「あーあ。兄さんの飼い猫じゃなければな」


 そうしたら、こんないまいましい猫、さっさと放り出してやれるのに。


「大体久兄も何で猫なわけ。これなら犬の方がまだマシだわ……って、何よ。そんな格好して、私が絆されるとでも思ってるの?」


 がりがりとベッドの淵を掻き必死に這い上がろうとする姿に、一瞬心を奪われそうになる。努力する奴は嫌いじゃない。そんな言葉が思い浮かんでしまった自分に幻滅する。何を考えているんだろう、私は。相手は猫っかぶりの最低女なのに。


「……まあ、久兄には通じたみたいだけど、私にも通用すると思ったら大間違いだからね、そういう媚び。ていうか、久兄に擦り寄ったりユキ兄の膝の上に乗ったり本当うざすぎ。新入りのくせに生意気なんだけど」


 苦々しくそう言い放てば、猫は爪を引っ込め、私を静かに見つめ始める。その目が馬鹿にするように光った。


「ちょっと、何よ、その馬鹿にしたような目は」


 足を振り上げシーツの上に勢いよく下ろせば、乾いた音とともにベッドが大きく揺れる。猫はびっくりしたように後ずさり、一目散に駆けていく。その後ろ姿に向けて、私は犬の鳴き声を真似て何度も吼えた。何となく、猫は犬が苦手なイメージがあったからだ。


「わんわん、わん! わん!」


 ……何だか、馬鹿っぽい。そう思ったけれど、私は止めない。大きな声で威嚇する。


「わんわんわんわん!」
「何してんだ、柚子」


 と、背後から、呆れるような面白がるような声がした。私は表情を一変させ振り返ると、「ユキ兄」とはにかむ。


「ううん、ただこいつらがムカつくから、威嚇してただけ」
「わんわん吼えてか?」
「犬の真似をすれば怯えるかなと思って」
「なるほどな――あ、くそ、寄るな。こら」


 ユキ兄に甘えるように縋りつく猫を足先で払いのける。


「俺に甘えていいのは柚子だけだって言ってんだろ。向こうに行けってば」


 その様子を私はじっと見つめる。ユキ兄が、私のために、猫を拒絶した。そのことに深い喜びと満足を感じてしまう私は、少し性格が悪いのかもしれない。でも、それでも構わないと思うし、きっと兄さん達は、そんな私を受け入れてくれる。
 猫を払いのけた後、ユキ兄はベッドに腰を下ろす。そしてこちらを見てにやりと笑った。ユキ兄には、久兄のような優れた推察力はないが、たまにこちらが驚くほど鋭く人の思考を見抜いてしまう時がある。今もきっと、私の感情を敏感に感じ取っているに違いない。


「柚子」


 ユキ兄が両腕を大きく広げる。その仕草にもしかして、と期待が膨らむ。


「おいで」


 望み通りの言葉だ。私は満面の笑みを浮かべて彼に這い寄ると、腰周りに力いっぱい抱きついた。膝に顔を寄せて目を閉じれば、ユキ兄は頭上で小さく笑い頭を撫でてくれる。


「猫なんかに嫉妬すんなよ」
「え? 嫉妬?」
「してただろ、嫉妬。久兄に擦り寄ったりユキ兄の膝の上に乗ったり本当うざすぎーってさ」
「み、見てたの?」
「見てたよ。可愛かった」


 ユキ兄はそう言って、まるでペットにするように私の頬に指を滑らせる。私は恥ずかしくなり「だって」と口を尖らせた。


「あいつら、温かい寝床と美味しい食べ物を手に入れるために、久兄やユキ兄に色目を使っちゃって、むかつくんだもん。ユキ兄は素っ気無く接してるからまだいいけど、久兄は猫の計算通り、頬を緩ませちゃうし」


 その時、ユキ兄がふと真面目な表情を浮かべた。


「変だよな」
「え?」
「アニキだよ。最近、どうも様子が変じゃないか? 今回の猫のことだってそうだ。何かにつけて良いことばかりしたがる」
「うん、確かに」


 私は先日、久兄が道行く老人に親切にしていたことを思い出す。金のためだと弁解していたが、真偽のほどは分からない。


「この猫だって、一匹だけオークションに出せば、後は全部捨てても良かったんだぜ。それを、繊維製の家具はないとか何とか言って結局飼い始めちまうし」
「レモン石鹸で洗ってやったりし始めるし」
「猫の話になると止まらないし」
「いつもポケットの中に鰹節入れてるし」
「え、それまじ?」
「まじ」
「それは酷いな」


 ユキ兄が真剣な表情で言う。


「俺達の好物はポケットの中に入れてくれたことないのに」
「ね。猫と私たちのどっちが大切なのよって言いたくなるね」
「何が言いたくなるって?」
「アニキ!」
「久兄!」
「どうした。二人だけでそんなにベタベタして。私も仲間に入れてくれ」


 久兄が芝居がかった様子で両手を広げてみせる。私はふん、とそっぽを向いた。


「久兄には可愛い可愛い猫がいるじゃない」
「ああ、そうだ。そいつに構ってもらえよ」
「まあまあ、二人とも拗ねるな」
「拗ねてない! ね、ユキ兄」
「な、柚子」
「それより二人とも」


 久兄が静かに手を上げた。私たちは、まるで魔法がかかってしまったかのように黙り込んでしまう。久兄が満足げに微笑み、咳払いをする。それから、厳かに口を開いた。


「今日は重大な発表がある」
「発表?」
「ああ、心してよく聞いてくれ。我々は金をもうけるために、様々なことをしてきた。善行も悪巧みも傍観も。そして、我々は今回、新しいことにチャレンジしてみようと思う」


 久兄の演説にはいつも心を奪われる。久兄を凝視し息を詰めれば、頭上でユキ兄も同じ状態でいるのを感じた。


「今後のプランを資料にまとめたから、とりあえず読んでみたまえ」


 ユキ兄が両手で資料を受け取る。私は彼の腕の中に顔を突っ込み、胸にもたれながら資料を読んだ。読み進めていくうちに、ユキ兄の腕は震え始め、わたしの口元はひきつり歪む。


「どうだね、ユキ、柚子?」
「……納得できねえ」


 ユキ兄がそう漏らせば、久兄は「ん」と眉を吊り上げる。それを合図にユキ兄が今まで溜まっていた鬱憤ともども激しくぶちまけ始めた。


「何だよロールパンって! これ、ただの工場経営じゃんか! 金のため? あーそうだろうよ、でもこれで金を儲けても全然ワクワクしねーよ! ていうか住み分けがどうのこうのって話はどうしたんだよ! これのどこにワル要素があるんだよ!」


 久兄は黙って、ユキ兄の言葉に耳を傾けていた。その口の端からは、堪えきれないような笑みが浮かんでいる。


「落ち着け、ユキ」
「分かった、落ち着く」


 そういうとユキ兄は私の体を力いっぱい抱きしめた。んぐぐ、と私は呻く。触れ合える嬉しさと呼吸できない苦しさの、二つの感情の狭間でジレンマを感じる。ようやくユキ兄の腕の力が少しだけ緩んだ。


「よし、落ち着いた。でも、俺は納得したわけじゃないからな」
「分かっている。だが、少し考え方を変えてみてはどうだ?」
「考え方?」
「ユキ、おまえがこれから扱う品物はロールパンじゃない。生まれたての赤んぼうだ」
「赤んぼう?」
「そう、赤んぼうだ。生まれたてのほやほやした赤んぼうを親から引き離し、袋につめる。そして、たくさんの赤んぼう達は全国へと運ばれていく。我々は食べられたくないよと泣き叫ぶ赤ん坊をものともせず、非情な工場長達から金を受け取る」


 話が進むうちに、ユキ兄は興奮していき、顔に赤みがさしていく。


「すげえいい!」
「な、すごいだろ?」
「ああ、最高だ! 何て悪い奴らなんだ、俺達は!」
「では、このプランに全面的に賛成ということでいいんだな?」
「もちろんだ! ……ああ、まさかここまで悪い奴になるとは思ってもみなかったぜ」
「そうか、それは良かった。柚子、おまえはどう思う?」


 満足げに微笑んだ後、久兄が今度は私の方を向いた。


「おまえはこのプランに、賛成か反対か?」


 私はちらりとユキ兄に視線をやった。乗せられている。明らかに、久兄の口車に乗せられている。私以上に久兄の言うことに盲目なユキ兄を見ているうちに、少し冷静になった頭がそう告げる。
 けれど、今回はただの工場経営だ。他の誰かに害が及ぶわけでもない。確かにいつものイメージとは少し違うが、今回の工場経営が悪いこととは思えない。そこまで考えた私は、柔和な笑みを浮かべてみせた。


「もちろん賛成だよ、久兄」


 工場や猫にかまけて私たちを放置するようなことさえしなければ、何でも大賛成だ。どんな計画だとしても、従いていくよ。


「そう言ってくれると思ったよ」


 久兄は口の端を緩ませると、ベッドに腰を下ろし私の頭へと手を伸ばした。
 ふと昔を思い出す。ユキ兄と私のために、下らなくて馬鹿馬鹿しいことを、さも重大で大変な悪いことをしているかのように話を膨らませる久兄とそれに目を輝かせるユキ兄、胸をどきどきさせる私。楽しかったあの頃に、久兄は戻そうとしてくれている。まるで、私たちの間に横たわっていた氷河期を忘れさせようとするかのように。自信はないけど、そんな気がした。


 
 End.
 

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