コイン

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「何も言わず、大人しく警察に捕まっていてくれ、と言ったハズだが? 意味が分からなかったのか?」


 押さえ切れない怒りがちらりちらりと声の端に滲み出ていて、平常を装おうとしているのが失敗に終わっている。


「まあまあ」


 わたしはそんな早坂さんをなだめるように、わざと馴々しくウィンクして見せた。


「そんな怖い顔しないで下さいよ。有理数の大小すら分からないような小卒のチンピラと、ただの生意気な小娘に逃げられただけじゃないですか」
「おい」
「どうせあなたみたいな人は、逃げられるのには慣れているんでしょう? 今更何を」
「おい! そのナントカ数の大小すら分からないような小卒のチンピラって、まさかとは思うが……俺のことじゃあないよな?」
「吾代さん。半分と2分の1はどっちが大きい?」
「半分に決まってんだろ!」
「あ、退化してる」
「ユウ……」


 弥子ちゃんが肩を震わせた。


「これ、吾代さんウケ狙いでやってんの??」
「黙れ探偵! っくしょ……また引っ掛けやがって!」


 吾代さんがが一歩、脅すようにわたしの方へ踏み込んだ。


「うわーんお母さん、怖いお兄ちゃんがいるようー」


 吾代さんを怖がるかのように頭を抱え、その場にしゃがみこんでみせる。その、次の瞬間だった。
 わたしの頭のすぐ上を、銃弾が掠ったのは。




「あ、れ……?」


 掠った瞬間は、何が何だか、よく分からなかった。でも、倉庫の入口で笠原さんとその相棒が、銃口をわたしに向けているのを見て、地面についた小さな焦げ跡を見て、状況がやっと把握出来た。


「……あっ、ぶなー……」


 しゃがみこんだまま、ぼんやりと呟く。もしわたしが怖がるフリをして、しゃがみ込んでいなかったら、わたしは死んでた。


「テメェら……」


 唸る吾代さんに、二人は何故か得意気に笑いかけた。


「早坂さんが教えてくれたんだよ。な、相棒?」
「あぁ。ターゲットが、俺達の後をつけてきてるから、隙をみて殺せってな」


 あの時か。殺せと命じた人間と笑顔で会話出来るなんて、怖い人だ。分かってはいたが、顔をしかめずにはいられない。


「悪いな。あんたに個人的な恨みはない……だから、なるべく苦しまないように、一瞬で殺してやるよ」


 だったら、恐怖を感じる前に、さっさと殺してくれれば良かったのに。まぁそもそも、こんな誠実で真面目で有望な女の子を殺すのはどうかと思うんだけど。


「なぁ、」


 不意に、ずっと黙りこんでいたユキが口を開いた。虚ろな目が、笠原さんを捕らえる。


「おまえ、今――」


 その声は、たまにわたしの背筋をゾクッとさせる、あの声の何倍も冷たく、


「――ユウを殺そうとしたな」


 身を切り裂かれてしまうかと思うほど、鋭かった。


「え」


 笠原さんが戸惑ったような目をユキに向けた、次の瞬間。ユキのコートがパサリと翻った。刹那、


「……っ!」


 いつかの吾代さんのように、彼の体中からドッと血が噴き出した。まるで、見えない剣で至る所を滅多斬りされたかのように。ほんの数秒、硬直したかと思うと、「かはっ」と口から血を吐きだし。


「……嘘だろ」


 崩れるように倒れた。


「か、笠原!」
「笠木くん、」


 笠原さんに駆け寄ろうとする相棒に待ったをかける早坂さん。


「その前に、やるべきことが、あるだろう?」


 ゆっくり、一音一音はっきり発音すると、わたしを上品に指し示す。――殺れ。口には出さないものの、その命令ははっきりと伝わった。


「……」


 相棒……いや、笠木さんが、悲痛な面持ちを一変させる。


「了解」


 照準が他の誰でもない、わたしの心臓を真っ直ぐに捉える。


「止めろ」
「ユキ、」


 早坂さんが、ユキの方を見もせず、静かに声をかけた。



「裏切るのか?」


 ユキがその言葉に激しく狼狽するのを見て、満足げに笑う。


「そうだ、ユキ。自分が誰に仕えているのか。女に入れ込むあまりに、それを忘れてしまってはいけないよ」
「……」


 ユキが迷うかのようにこちらを見る。わたしは安心させるように、ニッコリ笑ってみせた。


「大丈夫……」


 分かってたよ、君の気持ちは。こうなることも、君の取るであろう行動も、全て。大丈夫、大丈夫だよ。そんな思いを込めてわたしは笑った。本当は大丈夫なことなんて何一つないのに。カチャリ。異様な程静まり返っていたそこに、安全装置が外された音が大きく響いた。時が流れるのが異様に遅く感じる。今回ばかりはユキも助けられない。ネウロも当然、助けてくれる気はない。現実味のない死を前にしたわたしの脳裏に、ぼんやりと“負け”の二文字がちらついた。
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