コイン
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「おやおや……」
ネウロが楽しくて堪らないとでも言うような声を出した。
「飛車を取られてしまったな、ユウ?」
「毎回毎回勝っていると、勝利の感動が薄れちゃうからね」
欠伸を噛み殺す。今日はなんかいつもより眠い。
「たまには負けそうになってみるのもいいかな、て思ってさ。ほら、苦戦のすえの勝利っていうの?」
「ほう、とんだ無駄足を踏ませてしまったな。そんなことをしなくても、ちゃんと負かせてやるから安心しろ」
「話聞いてた? 負けそうになってみるとは言ったけど、負けてあげるとは言ってないよ。大丈夫、最後はちゃんと勝ってあげる」
ダウトを2人でやるには、相手の手札が分かりすぎてしまい、あまりにも面白くない。と言うわけで、わたしたちは今、将棋をさしている。そう、笛吹さんがお前にはまだ早いと言った、将棋だ。わたしは笛吹さんのことを思い出しくすくす笑った。そう言えばこないだの笛吹さんのスーツの感触最高だったな。考えてるだけでため息が出そうなくらい。それに反応も面白かった。頬が真っ赤になるまで怒っちゃって。もしかしたら、わたしのような人が嫌がる様を見て喜ぶ人間が、この世界をダメにしているのかもしれない。
「――他の男のことを考えているな?」
急に顎に手を添えられたので、びっくりして顔を上げる。目線を上げたらテーブル越しにあったハズのネウロの顔がすぐ目の前にあった。
「一体誰のことを考えている?」
「……さぁ?」
ネウロと視線がかち合う。
「――今、貴様は我が輩とゲームをしているのだ」
何かがとぐろをまいているようにも、ゆらめいているようにも見えるネウロの目が、あたしの視線を捕らえて離さない。
「今は我が輩以外のことを考えるな。ゲームに集中しろ」
ネウロが囁く。背筋に、ゾクゾクする何かが走った。
「……わたしに命令しないでよ」
それをごまかすように、挑戦的に言い放つ。
「命令するな、だと?」
この後なんて反論されるかが目に見えている。
「我が輩は貴様の上司だぞ? 部下に仕事しろと言って何が悪い。まさか、忘れたのか? 我が輩との“契約”を」
――“契約”。それはきっと、ここのバイトになる前に交わしたあの約束だろう。
「忘れるわけないじゃん」
わたしはネウロを楽しませる。ネウロはわたしを楽しませる。忘れもしない“約束”だ。そして“約束”した日からわたしの世界は確実に変わった。退屈な時間が極端に減った。そして、楽しい、ワクワクするような時間が増えた。普通に暮らしてただけじゃ絶対に味わえないスリルも体験した。
「でも、労働者は常に労働条件の改善を訴えるものなんだよ。人間は現状に満足しない生き物だから」
「厄介な生き物だな」
「でも現状に満足しないからこそ人間は進化できるんだよ。そして、ネウロの大好きな謎が生まれる」
「……ちっ」
ネウロが舌打ちをする。でも顔はどことなく楽しそうだ。論破されて喜ぶなんて、ネウロは実はMなのかも――いや、ないな。一瞬でもそう考えた自分が馬鹿だった。
「……大体、わたしは今、ちゃんとネウロのそばにいてあげてるじゃん。ゲームまで付き合ってあげてる。これ以上仕事をしろと?」
実は後で残業手当て請求しようと考えている。弥子ちゃんに。
「……あぁ。確かに今は貴様は我が輩の元にいる。だが、他に面白いものがあったらフラフラとそっちに行ってしまいそうだ」
「そりゃあ」とわたしはうなづく。
「労働条件のいい会社に転職できるならそっちに転職するよ。何事も適材適所だもん』
「それが我が輩には我慢ならない」
ネウロの手が伸びて、わたしの髪を弄ぶ。
「どこに行っても構わない。だが、最終的には我が輩の元にちゃんと戻ってこい」
普段は、あまり人に髪を触られたがらないわたしだけれど、何でかネウロの指は不快じゃなかった。それは、ネウロらしくない言葉を聴けて、嬉しかったのもあるかもしれないけど――
「――安心してよ。ネウロがわたしを楽しませてくれる限り、わたしはちゃんとここに帰ってくる。契約だもんね?」
「――あぁ、契約だ」
髪を放したかと思ったら今度は頬に触り始めた。ふにふにと引っ張ってみたり、温度を確かめるように触ってみたり。人間の体がそんなに珍しいのだろうか。けれど、頬の肉が伸びるから、そういうことは弥子ちゃんにしてほしい。
「大体、ここにいるよりもっと楽しいものなんてあるの?」
――ゲームは楽しい。でもそればかりだと飽きてくるし、ここでも十分できる。ユキや吾代さんのような人種がする、大金稼ぐゲームがあるのも知っている。普通より刺激的で一攫千金、でも命がけなゲームだ。けれど残念ながら、あたしには命をかける気力も度胸もないから、やろうとは思わない。
「そんなのがあるならわたしに教えてよ」
わたしはこの16年間生きてきて、こんなに楽しい思いをするのは初めてだ。飽きもせず、犯人は誰かと予想したり、おちょくったり、爆弾解除したり、弥子ちゃんをネウロと一緒にからかったり。わたしは当分ここを離れる気はない。
「そうだな。例えば――恋愛とかどうだ。人間共は好きだろう?」
――恋愛。わたしが、恋愛? このわたしが? 自分の耳が信じられず、ネウロを呆気に取られたように見つめ――笑い出した。
「あはは! ネウロ、わたしのこと馬鹿にしてんの?」
「貴様ぐらいの年頃によくありがちだろう?」
「――やっぱりバカにしてる」
あーゆう人たちとわたしを一緒にするなんて。ネウロの変な髪飾りのついた前髪を思いっきり引っ張ってやろうと、手を伸ばす。
「――謎の気配だ」
動くはずのない前髪がググッと持ち上がり、わたしの手は空を掴んだ。
「そうみたいだね」
ネウロはわたしの髪をいじったのにわたしは触れもしなかった。主導権が向こうにあるようで、悔しさが込み上げてきた。滅多に感じない敗北感を振り払うように、ソファにゴロンと寝転ぶ。
「一緒にくるか?」
「いかない」
ぶすっと言い放つ。
「わたし、もう寝る」
「そうか。それは残念だ」
意外そうに眉を吊り上げてみせると、ネウロはそのまま何も言わずに事務所を出て行った。わたしも黙って寝転ぶと、天井を見上げたまま、あれこれ考えた。
「……恋愛、だって?」
わたしが誰かと一緒にいて、デートしたり、甘い言葉を囁いたり、抱きついたり、キスしたり、あるいはそれ以上をしたり。そんな様子を想像してみる。口をついで出たのは、嘲笑だった。一体誰を嘲笑っているのか、それすらも分からない。けれど。
「――ありえない」
わたしが、そういう相手を見つけることもありえないし、わたしがそういう気持ちになるだって、ありえない。
「あーあ。ネウロったら、やっぱり人間のこと、理解できてないな」
止まらない嘲笑が、心に穴をあけていく。
「そもそも、わたしみたいな人間を、好きになる人がいるわけないじゃん」
自分が言い放った言葉が、部屋にも頭にも必要以上に反響する。口に出して、その通りだ、と思った。葬式での皆の冷たい視線を、叔母さんの糾弾を思い出し、体の底が冷えていくのを感じた。
「……寝よう」
次に目を開けたときには、今よりはマシな気分になっていればいい。あと、こんな気持ちなんか忘れてしまうくらい、楽しいことが起こってくれれば、なおいい。そんなことを考えながら、わたしは宣言通り、目を閉じた。