コイン

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「そういえばさっき、病院の廊下でネウロと擦れ違ったけど、笹塚さんのところに来てたの?」


 お見舞いに来てくれたユウが椅子に座りながら問いかける。ほとんど毎日のこのお見舞いが、アクティヴィティな入院生活を送る俺のささやかな楽しみの一つとなっていた。


「あぁ、弥子ちゃんとこの助手か。来てたよ」
「何て?」


 俺は要約に使う言葉を慎重に選ぶ。


「……ユウをよろしくってさ」
「へぇ。あのネウロがねえ」


 ユウは納得していないようだった。勘が鋭い。俺は「ところでユウ、」とさり気なく話題を変えた。


「どうして俺のことを笹塚さんって呼ぶようになったんだ?」
「え?」


 きょとんとした表情で俺を見た後、うーんと唸り、「何となく、気分を入れ替えたかったから、かな」と答えた。その返答に肩の力が抜ける。


「何だそれ」
「どうして?」
「いや、最初に苗字で呼ばれた時、縁を切るぞって脅しかけられてんのかと思ってすげーショックだったからさ」
「あぁ、そういえば悲しそうな顔をしてたね」


 彼女が俺から顔を背ける。その顔に堪え切れない笑みが浮かんでいるのが手に取るように分かる。俺は責めるような声を出してみせた。


「ユウ、実はあの時俺のショック受けたような顔見て、ちょっと楽しんでただろ」
「まっさか。あの時は全然そんな余裕はなかったよ」
「じゃ、今俺の反応を思い出して笑う余裕はあるんだな」
「全然そんなことないって」


 絶対嘘だ。俺は溜め息をついた。


「……でも、気分を変えたかったっていうのは結構当たってるかも」


 彼女がぽつりと呟く。


「なんていうかさ、お兄ちゃん呼びしてると、わたしただのブラコンになっちゃうじゃない。そうじゃないの。わたしは近所のお兄さんとして好きだったんじゃなくて、笹塚衛士という男の人として好きになったの。なんていうか、それをはっきりさせたかったんだ」


 そういう彼女の言葉を黙って聞くうちに、実感する。こいつはもう、昔俺が世話を焼いていた小さな女の子じゃない。泣きそうな顔をしてうじうじ悩む少女でもない。俺が彼女に頼られる、ということはきっともうない。少し寂しいな、なんて思考を振り払う。目先の幸せはその寂しさを補ってあまりあるほどの価値がある。俺は会話に意識を戻した。


「はっきりさせるって、誰に?」
「誰だろうね。あの黒い眼鏡かけたナースの人じゃない?」
「七尾さん?」
「そうそう。その人、すっごい笹塚さんのこと見てるもん。焦げるような視線で」
「嫉妬かよ」
「嫉妬だよ」
「……妬くなよ。可愛い」


 自然に笑みが零れる。ユウはそんな俺を見て表情を柔らかくすると、椅子から立ち上がってベッドに腰掛けた。上半身をこちら側に傾ける。整った顔がすぐ近くまで迫ってきた。この間平手でやられた時と同じ体制だ。肩が自然に強張った。そんな俺の異変を彼女は見逃さない。


「ちょっと、恋人に擦り寄られてその態度はないでしょ」
「悪い、条件反射で」


 この間の平手うちは痛かった。俺がぼやくと彼女は「しょうがないでしょ」と眉を吊り上げた。


「それにあれは避けられない道だった」


 ――避けられない? その言葉に俺は違和感を覚える。避けられないってどういうことだ。俺が裏ということを知っていたということか? そんなことは可能……かもしれない、こいつなら。けど、腑に落ちない。


「ちょっと待て」
「ん?」
「君、もし俺がコイン・トスで勝ってたら、どうしてた?」


 恐る恐る訊いてみると、彼女はにっこり笑った。その笑みに嫌な予感を覚える。


「同じことしてた」
「……は?」
「同じように殴って、で、告白してた」
「……コイン・トスした意味なくね」


 どちらにせよ、殴られていたのか。悩まなくて正解だったという気持ちよりも、何でこんなことをしたのかと呆れる思いが大きい。だって、あれ、かなり痛かった。


「何でしたの?」
「きっかけが欲しかったんだよ」


 予想に反して、簡単に答えが返ってくる。


「あなたを許すきっかけが。きっかけさえあれば、なんでもよかった。笹塚さんだって負い目を感じなくて済むし、すっきりしたでしょ?」


 それは、俺を許したがっていたということか。本当に彼女に愛されていたんだな、と実感が沸き、心がふわりと温かくなった。


「それに、コインなんかに気持ちをゆだねているようじゃ、強くなったとは言えないもん」


 そういう彼女はどこか凛として見えた。俺は彼女の頭を撫でた。


「やっぱいい子だな」
「いい子って……お兄ちゃんだっていい人じゃない」
「あ、今お兄ちゃんって」


 指摘すれば、ユウは「あ」と声を上げた。俺は「いいよ、呼びやすい方で」と言った後、「まあ、確かに君にとっちゃ、俺はデロデロに甘い、いい人かもしんないけどさ」と認めた。


「じゃあ何? 他の人にとっては悪い人なの?」
「――さあ」


 俺は意味深に呟いてみせると、ユウの腰に左手を回しそっと引き寄せた。彼女の上半身が俺のと重なり、密着した状態となる。肩が強張るのが感じられ、くすりと笑った。純情なんだかそうじゃないんだか。右手をユウの顎にかけ、そっと唇にキスを落とした。数秒間、互いの体温を感じ取る。目のやり場に困っているのか、彼女の瞳は伏せられたままだ。もっと彼女を困らせてやりたくなって、俺は一瞬唇を離した。彼女が終わったのかとそっと顔を離し、酸素を取り込もうと口を開く。その瞬間、俺は再び彼女に顔を近づけた。今度は彼女の下唇を甘噛みし、柔らかい感触を味わう。何だか草食動物を襲っている肉食動物になった気分だ。もっと噛み付いてやりたくなったが我慢する。咄嗟に離れようとするユウの頭に右手を持ってくる。腰に回した左手は離さないままだ。呼吸をも食らう勢いで彼女にキスをすれば、段々肌で感じていた彼女の体温が熱くなっていった。


 ――俺がユウを感じさせている。


 そう考えた瞬間、どくん、と体の芯が疼いた。これ以上はやばい。俺は名残惜しくも、彼女の唇にリップ音を立ててキスをすると、そっと体を離した。真っ赤になって俺を睨むユウの顔が見えた。俺の息も荒い。しばらく、二人とも何も言わなかった。やがて、彼女が視線を逸らした。


「怪我人の癖に、随分元気だね。おまけに癖が悪い」
「煙草が吸えないもんだから、ずっと口が寂しくて」
「そんなにあれなら、七尾さんにしてもらえばいいじゃん」
「君じゃないと意味が無い」


 拗ねたようにそっぽを向く彼女に、そっと声をかける。


「それに、今までずっと我慢してきたんだ。ちょっとくらいはしゃいだっていいだろ」


 な、と縋るように声を出せば、彼女は諦めたように溜め息をついて、恨めしげに俺を見た。


「ずるいよ。そんなこと言われたら、機嫌を治さないわけにはいかないじゃない」


 俺は口の端を少しだけ吊り上げ、「大人は皆ずるいもんさ」と嘯いた。ユウはむくれた顔をしてみせ、それから笑った。恥ずかしくて、くすぐったくて、けど居心地のいい時間。永遠を信じるほど若くはないが、この時間がいつまでも続けばいいのに、と思わずにはいられない。俺は心の中で愛してる、と呟いた。俺は今、確かに幸せだった。

 Happy End!
 

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