コイン

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 刑務所から出たその足で、弥子ちゃんから教えてもらった病院へと向かう。バスの中で少し寝てしまった後はすっかり目が冴えてしまい、ずっと直立不動のまま揺れていた。空は既に暮れていた。肌寒さを感じながら歩調を速める。受付へ向かい番号を聞くと、静かに歩き始める。


 ドアの前で、やはり一瞬躊躇をし、それから息を吸うと、静かにノックをした。しばらくして、「どうぞ」という低い声が聞こえた。わたしはぎゅっと取っ手を握りしめ静かに横へ引いた。クリーム色に揺れてるカーテンと真っ白な壁、そしてこれまた真っ白なベッドの中に、彼はいた。彼はあたしの顔を見て、驚いたようにかすかに目を見開いた。わたしは小さく一礼すると、途中で買った菓子折りをベッドの脇に置いた。その後、薦められもしないのに小さな椅子に座った。


「……体調はどう、笹塚さん」


 やがて、わたしは口を開く。彼は笹塚さん、と呼ばれたことに若干の反応を示しながら「……あぁ、まぁ大丈夫」と呟き、それから躊躇いながらも「君も……元気そうだな」とわたしの顔を見た。


「そう?」
「ああ。なんていうか……晴れやかな顔をしてる」
「うん。わたしもそう思う。なんていうか、魔法が解けたみたいな感じなんだよね」


 体が軽くて、頭が冴えてて。ふぅっと息をつけば、笹塚さんは「魔法が?」と聞き返す。わたしは唇を舐めた。


「あのね、さっき、アヤさんに会ってきたんだ」


 笹塚さんが明らかに驚いたように肩を跳ねさせた。それを見て、わたしは笹塚さんがわたしの叔母さんの正体を知っていたこと、そしてわざと隠していたことを悟った。


「何で……教えてくれなかったの?」


 静かに、冷静に、と自分に言い聞かせながら問いかける。


「わたしの叔母さんがアヤさんだってこと。変えてくれるって言った癖に」


 ああ、無理だ。どこか責めるような口調になってしまう。でも、何で? 何でわたしに隠してたの? わたしの心に傷を負わせたのが叔母であるアヤさんだと知っていたら、そして話し合う機会を設けさせてくれれば。わたしはもっと早くから穏やかな人間として変われていたかもしれない。今までずっとあたしを甘やかし、守って、大事にしてくれたあなたが、その機会を奪うなんて。


 笹塚さんが息を吸い、わたしの目をまっすぐに覗き込んだ。わたしは何も言わず見つめ返す。やがて彼は、「……教えたくなかったんだ」と暴露した。


「教えたら、君はきっと、長年の苦しみから解放される。けど、そしたらもう、俺には頼ってくれないかなって思った」
「……頼られたかったの?」


 わたしは首を傾げた。だとしたら――何て馬鹿馬鹿しくて下らない理由なんだろう。けれど、笑えない。


 その馬鹿馬鹿しくて下らない理由に、一瞬でも嬉しいと思ってしまうだなんて。


「あぁ。頼られたかった」


 笹塚さんがぼそりと呟いた。


「で、君をどろどろに甘やかしてやりたかった」
「何で?」


 笹塚さんがほんの少し、口の端を歪めた。


「……好きだからって言ったら、信じるか?」


 一瞬、心臓が止まった。その“好き”がライクという意味ではないことは、わたしにも分かった。弥子ちゃんのほらね、と言うようなしたり顔が目の前に浮かんで消えた。笹塚さんは、わたしのことを、好きでいてくれたの――? 頭に酸素が行き届かず、わたしは酸素を求める魚のように少し頭を仰け反らせ呼吸した。そんな都合のいい話があるもんか。


「でも、好きな子いるって言ってたじゃん」


 いつの間にか身を乗り出している自分に気付き、そっと体制を戻す。笹塚さんがしばらく考えるように首をかしげ、「ああ、」とうなづいた。


「あれだろ。ヒステリアの事件の後事務所で会った時の」
「そうそう」
「あれ、君のことだけど」
「……ちょっと待ってくれる?」


 わたしは待ってとジェスチャーをすると、記憶を遡り遡り、あの時の状況を思い出してみることにした。




 ――「……好きな子ってワケじゃないんだけどさ。まぁ、よく遊んだし、笛吹よりも俺の方に懐いてたし、妹みたいな存在だったんだ」




 まぁ、よく遊んだし、笛吹さんより笹塚さんに懐いてた。うん。




 ――「こないだ、その子に久々に会ってさ。随分綺麗になってた」




 まぁ、ヒステリア事件のちょっと前に久々に再会、したね。綺麗うんぬんは放っておこう。赤くなった顔を隠すようにうつむき、更に古い記憶を引っ張り出す。




 ――「で、笛吹と随分いい雰囲気になっててさ。ぎゅーって、抱きついてた」




 まぁ、確かに抱きつきました。いい雰囲気にはなってなかったけど。……嘘、本当にわたしは好かれていたのかも。わたしは顔を上げて、笹塚さんを見た。


「……それ、本当の話?」
「本当の話」


 笹塚さんの顔は、嘘をついているようには見えなかった。わたしは混乱し、動揺する。こんなことになるなんて全く想像していなかったから、どうすればいいのか本当に分からない。「嬉しい」と言うべきか、「わたしも好きだった」と言って抱きつくべきか。ふとそんなことを考え、わたしは笑った。わたしはそんなに軽い人間じゃない。 息を吐くと、わたしはいたずらっぽく笑ってみせた。
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