コイン

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「ユウ」


 聞き慣れた声がして、わたしははっと顔を上げた。長い間眠っていたような感覚を覚えるが、眠ってなどいなかった。この一週間、わたしは何かから逃げるようにたくさんの人の家を転々とし、いくつもの裏カジノを渡り歩いていた。その記憶はぼんやりとしている。疲れた頭を振り、眠気を飛ばした。


「……弥子ちゃん。どうしたの、こんなところで?」


 言った丁度その時、記憶が蘇る。そうだ、このカジノは弥子ちゃんと吾代さんと三人で来たことがあった。弥子ちゃんの知っている唯一のカジノだったのだろう。わたしが行ったカジノなんてたくさんあるのに、よくもまあ運のいい子だ。


「どうしたの、じゃないよ! あんたこそ、どうしたの?」


 弥子ちゃんがぐわしっとわたしの肩を掴み揺さぶった。


「ここ一週間、学校に来なかったじゃん。心配したんだからね」
「そっか、心配してくれてありがとう。頼んでないけど」
「む。どーせ余計なお世話ですよーだ」


 唇を尖らせてみせた後、ふと真面目な表情に戻る。


「……なんで学校に来ないの? 電話にも出ないし」
「行きたくないからに決まってんじゃん」


 ぼそぼそと呟き、首を回す。そろそろ体力的に限界だ。しかし、疲れて朦朧としたこの感じは悪くない。何も考えなくて済む。寝るには惜しいな、なんて考えてみる。


「まぁ、大したことじゃないから、放っておいてよ」
「昨日、笹塚さんが目を覚ましたよ」


 眠気が吹っ飛ぶ。弥子ちゃんが何をするつもりなのか真意が掴めず、わたしは微かに身構える。


「手術が終わって、ようやく容態が安定したんだって。面会して開口一番に言われた言葉は、“ユウは?”だった」
「……ふーん」


 心配されている? 罪悪感を抱かれている? それとも、形だけ? ……分からない。


「学校にも事務所にも来てないって言ったら、とっても心配してた」
「何が言いたいの?」


 結論を促すと、弥子ちゃんは持っていたバッグの中から、菓子折りを取り出し、「はい」とわたしに手渡した。封は切られている。わたしは蓋を開けてみた。


「……何これ」


 菓子折りとして有名なドジョウバナナが、一袋だけ入っている。しかも、開封済みのものだ。弥子ちゃんが顔を赤くし、頭を掻いた。


「いや……中身、全部食べちゃいまして」
「我慢の効かない性格だね」
「返す言葉もございません」
「で、」


 わたしはヒラヒラとドジョウバナナの袋を振ってみせる。


「これをどうしろと」


 弥子ちゃんが深く息を吸った。


「笹塚さんのお見舞いに行ってあげて」


 行ってあげて、と言われても。わたしは肩をすくめた。言ったところで先日の件がある、何を話せばいいのか、どんな態度を取ればいいのか分からない。彼がわたしのことを好いてくれているのか、それともただの同情なのかも。それに、ここ数日、空想上の彼に対して何度も恨みがましい言葉を投げつけた。実物を目の前にして、同じことをしないとも限らない。


「弥子ちゃんが行けば?」


 とりあえずの最善策を弥子ちゃんに押し付けた。


「わたしなんかが行っても迷惑になるだけだよ」
「そんなことないよ! 二人の間に何があったか知らないけど、」
「知らないなら放っておいてよ」
「放っておけないよ!」


 必死な形相で弥子ちゃんは叫ぶ。わたしは静かに聞き返した。


「何で?」
「二人は私の大切な人だもん!」


 しばらく沈黙が続いた。弥子ちゃんもわたしも、口を開かない。弥子ちゃんの荒かった呼吸が段々収まってくる。それでもなお、二人とも口を開かなかった。ここでは、大声を出す人は珍しくない。わたし達のことなど気にせずに酔い、叫び、舌打ちをする人々の喧騒と、スロットマシーンの機械音のみが鼓膜を揺らす。


「……へぇ」


 ようやく、わたしが口を開いた。


「だったら尚更、放っておいてよ。今のわたしじゃ、あの人を傷つける言葉しか言えないだろうから。いや、むしろナイフ持ち出しちゃうかも」
「何で?」


 弥子ちゃんの声はどこまでも優しかった。さっきの押し付けるような感じはなく、もっと優しく、たとえれば蜜柑の皮を剥くように、穏やかだった。疲れていたのかもしれない。気付けばわたしは、子供のように、素直に答えていた。


「何でって……悔しいから」
「何が?」
「あの人がわたしに優しくしてたのは、ただのフリなんじゃないかと思うと、今まで騙されてたのかと思うと、悔しい」
「それだけ?」


 弥子ちゃんの声が静かに先を促す。それだけだよ、という言葉を用意する。


「……本当は、悲しいから、かも」


 口からするりと流れ出たのは、違う言葉だった。わたしは内心驚く。けれどその後も、ぽつりぽつりと漏れ出る言葉は止まらない。


「今までの生活が本当に幸せだったから、もうこんな生活が送れなくなるのかと思うと、とても寂しい。あの人と一緒にいるだけで、何だか何となくふわふわした気持ちになって、何でもしてあげたくなって。そりゃ、悲しかったり苦しかったりする時もあったけど、それもひっくるめて、大切なあの人と過ごした時間だったの。何だか自分が変われたような気分がして」
「変わりたかったの?」


 ――そうだ、わたし達が一緒に住むようになったきっかけは、あの人がわたしを変えてあげるって、手を差し伸べてくれたことだった。わたしは息を吸った。


「変わりたかった。人を傷つける自分が嫌だった。そんな時、あの人は言ってくれた。わたしを変えてくれるって。だから、縋った」
「変われた?」


 弥子ちゃんの声は、まるで既に結果を知っているような安定感があった。わたしは首を横に振っていた。


「うぅん、変われた気になってただけだったよ」
「そうだね。変わるのって、難しいよね。私も、いっつもお土産途中で我慢できなくて食べちゃうもん」
「今回みたいに?」
「今回みたいに」


 くすり。二人が同時に顔を崩す。最初にあった緊張は消えていた。


「弥子ちゃんは、そんな自分を変えたいと思う?」


 わたしはふと訊いてみた。


「私? 私は……今のままでいいかなと思ってるかな。こんな私でも好きと言ってくれる人がいるし、私は私でこんな自分が気に入ってるから」
「そっか」


 やっぱり、わたしと違う。当たり前か。零れた笑みは自嘲的だった。
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