コイン

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「ネウロ。ちょっといい?」


 不意に弥子ちゃんが顔を出してネウロを呼んだ。お兄ちゃんが我に返ったように少しだけ顔を上げた。さっきまでの冷たい空気は消えていた。ナイフをそっと机に戻し、それから今更わたしの方をちらりと伺い見た。わたしは何とも言えない気分になって、肩を竦めてみせる。






 ――「笹塚衛士は表向きじゃ腕の立つただの刑事だが、こっちじゃ、ちょっとした有名人なんだぜ」
 ――「あいつは、俺達と同じ種類の人間だ。あんたのことを騙してるって可能性もないわけじゃない」
 ――「貴様が同居している男は、もしかしたら貴様が思っているようなまともな男ではないかもしれない、ということだ」
 ――「君は十年近く彼と交流を断っていたのだろう? だとしたら、その間に彼の身に何かあったとしても、そしてそのせいで彼が変わっていたとしても、何ら不思議じゃない」






 色んな人々の忠告じみた戯言が、今更頭に蘇る。


「お兄ちゃん、」


 わたしは遠慮がちに口を開いた。


「ここ十年で……何かあった?」


 一瞬の沈黙に、疑念が深まる。


「いや、別に」


 やがて、お兄ちゃんがわたしから目を逸らしながら答えた。


「何でそんなこと聞くの?」
「ううん。何でもないならいいよ」


 目をそらされ、わたしは確信する。同時に、胸が痛くなった。


「先輩、やっぱ事故でしょコレ」


 部屋の向こう側にいた石垣さんがこっちへやってくる。


「もちろん一年前にも同じ事件があったのは知ってるけど、偶然なんてよくあることですよ」
「そうかねぇ……」
「だって見るからに倒れやすそうですもん。やたらでかくて不安定な形のモンばっか作ってるし」


 そんなことは絶対ない。わたしは心の中だけで反論する。ネウロが“謎”を感知したのなら、そこに必ず悪意と犯人は存在するはずだ。けれどもわたしは口を挟まなかった。


「ね、事故! だから早くこんな家出ましょうよぉ! いつXが来るかと思うと怖くて怖くて」
「……よし、じゃあ撤収するか。お前だけ警備に残して」
「そんなぁ!!」


 酷いこと言わないでくださいよお、と情けなくも縋りつく。


「俺が怖がるのも無理ないっすよ! Xですよ? あの世界的に名をとどろかせている残酷で底知れない怪盗紳士! 先輩だってユウちゃんのことが心配じゃないんですか?」


 切り札とばかりに石垣さんがわたしの名前を口にする。何かに迷うように黙り込んだ後、お兄ちゃんはわたしの肩をそっと抱き寄せた。


「……大丈夫。こいつは、俺がちゃんと守るから」


 ――彼の声に、優しさや責任感だけではない何かが含まれている。わたしはその腕の中で、思わず体を硬くさせた。急にお兄ちゃんの傍にいるのが怖くなった。得も言われぬ不安が胸いっぱいに広がった。その瞬間だった。


「帰ってはだめです!!」


 両手をクロスさせた弥子ちゃんがわたし達のところへ勢いよく突っ込んできたのは。


「先生はあくまでこれが殺人だとお疑いです。だってそうでしょ?」


 床に押し倒され、重みで息もつけない中、ネウロがハキハキと喋る。


「確かにこれらの絵石家氏の造型には不安定なものが多いですが、それは奥さんであれば百も承知のはず。作った本人が下敷きになってるのだから、なおさら警戒しているはずです」


 お兄ちゃんの溜め息が耳元で響き、それからゆっくり重みが引いた。


「なのに、こうもやすやす下敷きになるでしょうか?」
「へぇ。じゃあいつもの如く事件の解決への確信があるわけだ」


 クロスチョップまでお見舞いして止めにくるわけだし、と若干の嫌味を込めて呟くと、弥子ちゃんがびくりと反応した。


「ええ! ……しかし、そうですね」


 考えながらネウロがわたしの手を引っ張り立たせる。


「まだ日が高い。せっかくなので、妙夫人の死亡時刻である夜中まで待ってて下さい」


 その時になったら、先生の推理を全てお話しましょう。ネウロが指を突き立てた。


「その時まで各自待機と言うことで。……家族にもそうお願いしたいですね」
「分かった」


 お兄ちゃんがうなづいた。


「そう伝えとく」
「ありがとうございます!」


 ネウロが笑顔でそう言い、部屋を出て行きかけたお兄ちゃんをあぁちょっと、と呼びかけた。怪訝な顔をしたお兄ちゃんを笑顔で手招きする。


「……」


 小声でお兄ちゃんに何やら囁きかける。珍しく不機嫌を露わにし、反論した。それを見て、ネウロはにやりと笑う。


「……ところで、ユウさんはご存知ないのでしょう?」


 そこだけかろうじて聞き取った後、再びネウロが声のトーンを落とす。一瞬ちらちとわたしを見たから、きっとわたしに聞かせたかったのだろう。お兄ちゃんの顔が強張った。その後、一言も言葉を交わさずわたしの腕を掴み、部屋を出て行った。


「お兄ちゃん」


 呼びかけても彼は答えない。


「手、痛い」
「あ……悪い」


 慌てて手を放す。その後、そっと手を伸ばしかけて、降ろした。


「お兄ちゃん、何か変だよ。大丈夫?」


 お兄ちゃんは何も答えない。何かに迷うように眉には皺がくっきり寄せられている。


「俺が君だったら、」


 しばらくした後、お兄ちゃんが口を開いた。


「様子が変なお前を原因が分かるまで問い詰めるけど」
「問い詰めろってわけ?」


 わたしはお兄ちゃんを伺い見た。同じようにお兄ちゃんもわたしを見ているのに気付いて、思わず噴き出す。


「しないよ、そんなこと」


そんなことはしない。誰にでも言いたくないことはある。


「それに、お兄ちゃんそんなこと言ってるけど、どうせその時になっても問い詰めないよ。でしょ?」


 嘘だ。本当は、ただしつこく問い詰めて嫌われたくないだけ。


「……君はそう思ってるわけね」


 お兄ちゃんの表情が一瞬だけ歪んだ気がした。


「思ってるんじゃなくて、そうなんだよ。だってお兄ちゃんは優しい人だもの」


 わたしは笑ってみせ、背を向けた。調べ終えた椅子に座り、お兄ちゃんからは顔が見えないようにそっぽを向いた。踏み込んで嫌われるのが怖い。だけど、踏み込んで、彼のことを知ってみたい。そんな相反する気持ちがせめぎあうが、結局は無難な方に議論は落ち着く。わたしは溜め息をついた。いつまでたっても、わたし達の距離は縮まらないままだ。


 でも、それでいいのかもしれない。
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