コイン
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「は、速い……!」
リーチの差だろうか。いくら走っても歩いているネウロに追いつけない。
「どうしたの、一体っ」
聞いてもネウロは答えてくれない。さっき擦れ違ったパトカーをひたすら見つめて歩いている。その髪飾りは微かな光を放って浮いている。
「……ネウロ!」
弥子ちゃんが大きな声で呼びかけた時、ネウロがやっと立ち止まった。一瞬弥子ちゃんに反応したからかと思ったが、すぐにそうではない、と気付いた。
「ここ、昨日の……」
すぐ傍に停車していたパトカーに気を取られてすぐには気付かなかったが、確かにここは昨日も来た、絵石家邸だ。パトカーと嬉しそうな表情で家を見つめ、新しい“謎”が生まれたのだろうと確信する。
「ユウ。それに弥子ちゃん」
その時背後から、驚いたような、それでいて呆れたような声がかけられた。馴染みの声に、わたし達は振り返った。
「やっぱり来てたのか」
「笹塚さん!」
パトカーから降りてこちらへ歩み寄るお兄ちゃんが目に入った。
「これはこれは!」
ネウロがお兄ちゃんに笑顔で近づく。
「どうにもここの人達に警戒されていましてね! あなたがいれば、少しは信用されるでしょう」
「ああ、まあ本来は俺も担当じゃねーんだけど」
「そーそー」
石垣さんが口を挟む。
「前の刑事は担当外されたそうでさ。怪盗Xへの警戒が足らずこの事件も防げなかったからだって。それで先輩が呼ばれたそうだぜ」
「すっごーい。石垣さん口軽ーい」
「えへへ、そう?」
「褒めてねーよ」
お兄ちゃんが石垣さんを蹴り飛ばす。石垣さんは呻いて地面にはいつくばった。
「ということは、この殺人もやっぱりXの……?」
「さーな。それはまだ分からない」
お兄ちゃんが背を向けた。
「ま、とりあえず入んなよ。実際に見てみないと、どうにも言いようがないだろ?」
――あれ? お咎めなし? 小さな違和感を覚え、お兄ちゃんを見つめる。が、そのくたびれた背中からは何も分からなかった。
「ア……アネキィ……」
体躯のいい利参が赤ん坊みたいに肩を震わせる。
「どーしてだよぉ……!」
絵石家塔湖の作業場は昨日とまったく違う印象を受けた。警察官が写真を取ったり印をつけたりと忙しく動き回る。倒された銅像の下にいたのは妙夫人の遺体だ。悪賢そうに光っていた目玉は飛び出しており、口から出ていた血は黒く固まっている。その様子をここの住民達は遠くから眺め、悲しみに顔を歪めている。お兄ちゃんは彼らへと近づいていった。
「どーも」
「おう……ん? 昨日の刑事さんじゃねーのか」
「ええ。諸事情ありまして」
お兄ちゃんが、口を開きかけた石垣さんの足を彼らから見えないように踏みにじる。
「あの、こいつらの身元は俺が保障できるんで、ちょっと協力させてやってくださいよ」
その言葉で再びわたしは違和感を覚える。いつもお兄ちゃんはしぶしぶという感じだったのに。
「……刑事さん、こ、これ、Xの仕業だろ?!」
利参が立ち上がってお兄ちゃんに詰め寄る。
「怪盗Xは盗みに入ると決まって誰かを殺すんだろ? あいつ、昨日の俺達の会話をどこかで聞いてて、一年前の義兄さんの事故になぞらえて……今度はアネキを殺したんだ!」
「Xねぇ……」
それは多分ないんじゃねーの、と考えながら呟く。
「確かにこりゃどーみても事故死に見えますね」
石垣さんが死体を見つめ同意する。
「彼女の不注意さでこのばかでかいオブジェの下敷きになったとしか……」
「しかも、奴が盗むと予告したこの“最後の自分像”。こっちに手をつけず、しかも被害者は“箱”にもされていない」
Xの犯行にしてはねぇ……とお兄ちゃんが溜め息をついた。
「確かに、Xといえば“赤い箱”ってイメージがあるけど……」
一茂が部屋から出て行こうとして振り向く。
「ただでさえこの家はあいつの影にビクビクしてんだ。事故のほかにもそっちの可能性も捨てんで下さいよ……」
遺族が次々と退出していく。ネウロに何か言われた弥子ちゃんも後を追うようにして出て行った。わたしも弥子ちゃんと一緒にいようと部屋を出て行きかけた時。
「ちょっと、ユウ」
お兄ちゃんに手招きされた。
「何?」
「Xが誰かに化けているかもしれない」
耳元で囁かれる。
「危ないから、なるべく俺の傍にいろ」
わたしはにやりと笑って囁き返す。
「お兄ちゃんがXじゃないって保障がある?」
一瞬お兄ちゃんがショックを受けたように目を見開いた。だが、すぐに落ち着いて口を開く。
「俺がXだとしたら、兄妹である君に危害を加えるはずがない。つまり、逆に安全なんじゃねーの」
「なるほど」
すごく納得だ。
「じゃあ、捜査の邪魔にならないなら」
「あぁ、どうぞ」
お兄ちゃんはわたしと目も合わせずに素っ気無くうなづくと、調査へと戻っていった。わたしはショックなど受けていないように何食わぬ顔を装った。
「見るのはいいけど、絶対に荒らすなよ」
既に色々見て回っていたネウロに声を掛ける。ネウロはもちろんですとも、と大きく笑って見せた。
「それにしても、本当に助かりました!」
「何が?」
「この事件の担当があなたになったことがです! 他の刑事さんじゃこう気安く入れませんし」
でも。思い出したようにネウロが眉を潜めてみせた。
「先生が現場に入ることを最近あまり好まなかったあなたが……どういう心境の変化です?」
ネウロの目が鋭く光る。ネウロも違和感を感じていたらしい。お兄ちゃんは黙ったまま机に目を光らせる。やがて剥き出しのナイフを手に取ると、片手でくるりと回してみせた。
「ま、いーじゃん。細かいことは」
その声は平坦なものだったが、その目は今までわたしが見たことないほど冷え冷えとしていた。