コイン
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灰皿に溢れんばかりになっている煙草の残骸。遅くなりだした帰宅時間。更に濃くなった隈。男性の部屋にあるはずのない、バックナンバーも出版社もバラバラな女性向けファッション雑誌。これだけあったら、彼が誰を追っているのか、聞かなくても分かる。
「えーっと、次は……籠原叶絵さんっている?」
美容院の待合室に出てきたのは、百舌貴康。今を輝くカリスマ美容師だ。
「はい、それあたしです」
何食わぬ顔をして手を上げる。叶絵ちゃん、名前借ります。
「そっか、君ね」
値踏みするようにわたしに――いや、あたしの髪に視線をやり、満足げにうなづく。どうやら合格点らしい。
「待たせてごめんね。中へどうぞ」
「わたしこそ、すみません」
頭を下げつつ、中に入る。
「予約もせずに、こうして押しかけてきちゃって、急に指名なんかしたりして」
「いいんだよ、そんなん。大体今日予約してたお客さん、なぜか皆豚インフルエンザでキャンセルだったし」
うん、知ってる。だって、謝礼と引き換えに、予約のキャンセルの電話をかけさせたの、わたしだもん。よかった。機嫌がよさそうで。
「それに、君みたいな髪質はなかなか珍しいからね。君みたいな子だったら、お客さんキャンセルしてでも入れてあげるよ」
「そうなんですか? ありがとうございます」
「じゃあ今日はどんな風にしたい?」
「どんな風にした方がいいと思います?」
「そうだなー……」
椅子に座らせたわたしの髪をゆっくりと梳きながら、百舌さんが考え込む。
「俺としては…――」
不意に百舌さんが口を閉じ、わたしのポケットに目をやった。
「叶絵ちゃん、ケータイ鳴ってるよ?」
「あ、本当だ。すみません」
絶え間なく振動するケータイを開き、相手を確認することなくボタンを押す。バイブは止み、わたしはそれを胸ポケットにしまった。
「すみません」
「いや、気にしてないよ。それでさっきの続きなんだけど……」
百舌さんの目がうっとりと細められた。
「俺としては、このまま伸ばした方がいいと思うんだ。だから今日のところはカットはなしで、トリートメントとリンスでより綺麗になるように集中ケアをしようと思うんだけど。どう?」
「百舌さんの言うとおりにして下さい。わたしはそれに従いますから」
「――そう?」
百舌さんの細められた目の奥で、何かが光った。
「信頼してくれてるみたいで嬉しいなぁ。じゃ、俺に任せてね!」
次の瞬間には、目の奥の光は消えていた。
「もちろん信頼してますよ」
わたしは今までよりも少し声を張り上げた。
「だって、あのカリスマ美容師百舌貴康さんですもん」
「あれ、俺のこと知っててくれちゃった系?」
「知らない人のほうが少ないですよ」
「いやぁ、君、さっきっから嬉しいこと言ってくれるなぁ」
「事実ですって」
言われなれているであろう慣れた反応に、わたしは苦笑した。そんな反応じゃ、サービスという点からは花丸をあげることはできないなぁ、なんてね。
「よく雑誌とかに載ってるじゃないですか、百舌さんって。ずっと前から百舌さんに髪の毛いじってもらいたかったんですよ。三年前から」
「――三年前?」
一瞬瞳孔が開かれ、それからもう一回驚いたように目が丸くなった。
「それはちょっといいすぎだよ。だって俺、3年前はまだ無名だったもん」
「世間的には、ね。一部の人には百舌さん、有名だったでしょ?」
「……あぁ、そりゃ、まぁそーね」
せわしなく動かされていた視線が、ようやく落ち着きを取り戻す。
「その頃から俺、腕は良かったから。 っと……あっれ、おっかしーなぁ……」
シャンプーやらリンスやらが置いてある棚に目をやり、間抜けな声を出す。
「どうかしました?」
「いや、とっておきのトリートメントがあったはずなんだけど……っかしーなぁ…」
首をかしげ、鏡越しにヘラリと笑いかけられる。