子犬のワルツ

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ところで、桂木弥子オススメのイタリアンはさすがと言うべきか、大変美味しかった。
付け合わせのパンも温かく、レモンバターソースの爽やかさと濃厚さのバランスが丁度いい。鶏肉も柔らかく、普段はあまり食の進まない私でも最後まで飽きずにいただくことができた。

「珍しいじゃねーか、てめーがちゃんと食うなんてよ」

吾代さんは安心したように目尻を緩める。私は口へ運びながら、「美味しいから」と端的に答える。

「でしょー! 小麦の香りが残るアルデンテはまるでイタリアに旅行に来た気分にさせてくれるよね。トマトの海の中で魚介の新鮮な出汁が踊って、まさにうまみのオーケストラ!」
「うんごめん、そこまで感性豊かじゃないけど」

ただ、良い素材と丁寧な下ごしらえで調理されたのは伝わってくる。そういえば、帰宅が不規則な兄さん達だったので、あまりパスタは作ってあげられなかったな。こんなにおいしいパスタだったらきっと兄さん達も喜んで舌鼓を打っただろうに。

「いつか兄さん達にも食べさせてあげたいな」

ぼそりとつい、口から出てきたのはそんな言葉。言うつもりのなかった私は少し顔を赤らめると、誤魔化すように水入りのコップに手を伸ばした。

「柚子さん、前にもお兄さんのためにコーヒー淹れてたとか言ってたよね」

探るようにこちらを見つめる吾代さんとは別に、桂木弥子がのほほんと話に乗ってくる。

「ああ、まあ、そうね」

正確に言えば、コーヒーに関してはユキ兄と一緒に、だ。毎日遅くに帰り、私たちの身の回りの世話をした後、深夜に家でもパソコンを開きメールチェックするような久兄に、ユキ兄と頑張ってコーヒーの淹れ方を勉強し、差し入れをしたのがきっかけだった。世話になってる私たちのほうが言うべきなのに、久兄は「ありがとう」と美味しそうに飲んでくれていたことを思い出す。ユキ兄も早く大人になりたかったのか、中学生くらいからブラックコーヒーを飲んではその苦さに顔をしかめていたように思う。

でも、私が一番好きな飲み物は、ユキ兄が小さい時に淹れてくれたミルクと砂糖たっぷりの温かいココアだった。あれは、寒さと寂しさを和らげてくれたとっておきの魔法の飲み物だった。
私たちのために楽しい20代を仕事に捧げ家族を守ってくれた久兄と、寂しい時もいつもそばに居て守ってくれたユキ兄。ふと蘇る懐かしい記憶が胸に込み上げ、私はその感情の正体を追う。

「柚子さんたら」

顔を上げると、桂木弥子がくすりと笑うのが目に入った。

「見たことのない優しい表情してたよ。よっぽどお兄さん達のことが好きなんだね」
「そう……かな。……そう、かもね」

ほんの刹那蘇った温かい気持ちを探すように、私は無意識に胸に手をやっていた。昔は兄さん達のことを盲信していた。肝心のところが見えていなかった部分ももちろんあると思う。けれど、一緒に過ごした時間や与えてくれた愛情、その全てが嘘や過信だったとも思えない。元はと言えば、自分が兄さん達の言うことを聞かず危険へと首を突っ込んだことが原因だ。私さえうまく立ち回れていればーー

「……おい、柚子。ちょっとうまい飯食ったからって絆されたんじゃねーぞ」

吾代さんがイライラと舌打ちをする。

「てめーが何されたか忘れたわけじゃねーだろ。あいつの束縛ははっきり言ってブラコンの度を越してた。話しても分かんねー奴からは逃げて正解なんだよ。てめーは何も間違っちゃいねー」

吾代さんは見た目に反して根が優しい。言葉遣いは悪いけれど、中身は私を甘やかす温かい言葉をかけてくれる。そうだ、あの時取った行動は間違ってはいない。あのままだと完全に骨抜きになっていただろうし、自分の気持ちを伝えることは悪いことじゃない。
けれど、ふとした瞬間に温かい記憶や久兄に冷たくされて丸まったユキ兄の背中を思い出す度に、もっとうまくやれたんじゃないかという後悔がさざ波のように押し寄せてくるのは止められない。自分の無鉄砲さが引き金を引いたことを自覚している分、余計にそう思う。

「柚子さん……柚子さんのお兄さんって、」

桂木弥子が遠慮がちに口を挟んだ時。
遠くの方でパシャリとシャッターを切る音が響いた。

「ほらー、あれが例の」
「やっぱあの噂は本当だったんだな」

音源へ顔を向けると、大学生らしき集団がこちらにカメラを向けてわいわい喋っている。嫌そうな顔をする桂木弥子に、こめかみに皺を寄せる吾代さん。

「兄ちゃんたちよォ。誰に許可取って勝手に写真撮ってやがんだ、え? 肖像権の侵害で訴えるぞコラァ、あーん?」
「えっ、吾代さん意外と知的」
「吾代さん、人を恐喝して金を搾り取るための法律の知識には詳しいから」
「人聞きの悪ぃ言い方すんな! 社長から民法叩き込まれたとだけ言っとけや!」

大学生の携帯を奪い写真を勝手に消しながら吾代さんが吠える。

「だ、だって女子高生探偵の食べてる写真をアップすると今ならなんでもバズるから……」
「そうだよ! ていうか、公式や警察のアカウントがあれだけ悪ふざけしてるんだもん、うちらがやったって別に良くない?」
「えっ? 公式? 警察?」

桂木弥子の頭にはてなが浮かぶが、吾代さんはネット関連と聞きハッとしたのか、ジト目を私に向けてくる。何だか気まずい。私はそっと視線を横に逃がした。

「えっ、柚子さん? 何か知ってるの?」
「いや、その……私個人があんたの写真をばら撒いたりはしてないけど……ま、まあ、良い言い方をすれば、あんたの人気ブームに火をつけたというか」
「柚子、おまえ何したんだよ、おい」
「な、何も。強いて言えば、ネットに流れる写真はデマが多いから信じちゃダメだよって警告しただけ」
「本当にそれだけか?」
「あー柚子さん!」

トゥイッターを開き事務所のアカウントを探し当てた桂木弥子が大声を上げる。

「酷い! 食べ物に関する噂は全部事実だって言っちゃうなんて! 私こんなちっさなおじさんなんて食べないよ!」
「で、でも大盛り完食した後カツ丼屋に行ったりしたことは本当じゃない! それに大丈夫、誰もこんな下らない動画、誰も信じる奴なんていないって!」
「でも年頃の娘がこんな大食らいなんて世界に発信されて喜ぶ人いないよ! だから隣のクラスの子が私のことを例のあの人とかオジ・イーターなんて言って笑ってたんだね……」

顔を赤らめて頬を膨らませる桂木弥子。ネウロには好評だった桂木弥子弄りも、世間では大喜利として受け入れられた悪ふざけブームも、年頃の女の子には受け入れがたいものがあるらしい。それもそうか、私が同じことされたらそいつをぶっ殺しに行くし、桂木弥子だって傀儡扱いされてるけど、何の感情も持たないわけじゃない。むしろネウロと対等になろうと頑張って努力している女の子なのに。

「……ごめん。私が悪かった。つい、事務所を盛り上げようと張り切りすぎちゃった。それと、下らない画像や噂が蔓延すれば、あんたに関する噂なんて誰も信じなくなって、逆に自由になれるかなと思ったの。でも、そうする前にあんたに一言言うべきだったね、本当にごめん」
「い、いや、別にそこまで嫌だったわけじゃ……」
「お詫びにここはご馳走するよ。何でも好きなもの食べて。デザートとか」

その瞬間、桂木弥子の眼差しが変わった。

「……いいの?」

その声は遠慮するようないつもの女の子らしい声ではなく、まるで熟練のハンターが獲物に狙いを定めたような凄みがあり、思わず吾代さんと私は背筋を震わせる。

「え、あ、うん……」
「やったーありがとう! 柚子さん良い人! すみませーん、追加注文いいですかー?」

打って変わって機嫌の良くなる桂木弥子が手を挙げてウェイターを呼び止める。もしかして、彼女、ツイッターで書かれたデマを全て実現可能な胃袋を持ってるんじゃ。嫌な予感に身を震わせる私はこの後、何でも好きなものを食べてと言ってしまったことを激しく後悔することになる。

(20190630)

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