子犬のワルツ

□23
1ページ/2ページ


大学帰り。吾代さんから電話がかかってきた。

「もしもし」
「おう、柚子か? 今晩空いてたら飯付き合えや」

今日の予定を頭に思い浮かべてため息をつく。

「残念だけど、今晩はバイトの面接があるから、またの機会に」

早乙女金融が解散した後、私は大学に通いつつ新しいバイトを探して自立することにした。豪田さんはひとまず実家に帰り、西村さんは知り合いの会社に身を寄せ、速水さんは親会社に報告、指示を仰ぐとのこと。
吾代さんはとりあえず手に職つけるために手当たり次第面接を受けているが、結果は芳しくない。この間警備会社に面接に行ったものの、その現場の警備員につまみ出されて、物理的に面接に行けなかったらしい。笑いながら可哀想にと言ったら怒られた。
それぞれの転職活動があるため、いつも一緒というわけにはいかないが、兄さん達のことがあるからか、吾代さんからよくこうして電話がかかってきて、食事や行き帰りを申し出てくれるので、彼とは比較的よく会う。楽しいし、気も紛れるのでありがたいと思う。

「何のバイトだよ?」
「カフェの店員さん」
「やめとけ」

間髪入れずにそう言われた私はむっとする。

「何でよ。私一応料理は一通り出来るのよ」
「笑顔作れねー奴に接客業が勤まるとは思えん」
「でも、スタパでバイト経験ある人は就活に有利らしいし」
「意外と世俗的な理由だな!」

ふと視界に黒スーツの人が視界に入る。5メートル先で私を見つめて嫌な顔で笑う。気のせいで片付けるには視線が強い。私は視線を外すとゆったりした動きで一本手前の道を曲がる。

「….….まあ、一般的なアルバイトやらをとりあえず経験しとくのも悪くないかなあと」
「ふーん。まっ好きなようにやれや」

警備会社の件を笑った仕返しか、吾代さんの声には嫌味が混じっている。曲がり切った瞬間足を速める。大丈夫、逃走経路くらい準備してある。この先のマンションにある抜け道を知る人間は少ない。マンションに入っていくと見せかけて大通りに出られればうまく撒けるはず。

「てめーがカフェで働くなんざ違和感しかねーけどな」
「あんたこそいつまで無職でいるつもり?」
「うっせー今不景気なんだよ!」
「売り手市場とは聞くけどね。まあでも勿体無いよね。あんた、人の扱い方や法律の掻い潜り方は上手いのに」
「柚子…….」

つい零してしまった本心に気恥ずかしくなり、私は慌てていつもの減らず口を叩く。

「まあ、その見た目の柄の悪さは、もう一度生まれ直さないとね」
「死ねってか!」
「まあ明日なら空いてるよ。だから……」

ふと抜け道を塞ぐように黒スーツの男が立っているのを発見する。抜け道も見越して、塞がれている。後ろからはゆっくりこちらへ歩みを進めるさっきの男。焦る気持ちを抑え、私は元来た道を戻り、大通りへと走り出す。

「柚子?」
「ううん、なんでもない。明日のお昼なら空いてるから、都合がつけばご飯食べよ」
「いーけど、おまえ走ってんのか? 急にどうした?」

吾代さんが大丈夫かと怪訝そうに訊いてくる。私は少し迷った。助けてくれ、と言ったら彼は今すぐ駆けつけてくれるだろうけど……間に合わないだろうし、間に合ったところで多勢に無勢、何とかなるとも思えない。
これくらい、自分で切り抜けないと。自分を鼓舞する意味でも口の端を無理やり引き上げる。

「全然平気。もう切るね」
「おいっ、」

吾代さんが何か言いかけるが私はとっとと切ると、そのまま全速力で駆け出した。足の速さには自信がある。このまま大通りから駅にに直行し、タクシーを拾えば、さすがに撒けるはず。
路地裏を抜けて駅へ向かう。曲がる瞬間、背後の男達も走って追いかけてくるのが見えた。冷静さを失いそうになる私の前に、向かいから空席の流しのタクシーがやってくるのが見えた。

「タクシー!」

私は大きく手を振り上げてアピールすると、タクシーがウィンカーを点滅させながら車体を脇に寄せた。助かった。ドアへと飛びつくと、自動でドアが開かれて。

「探したぜ、柚子」

後部座席でユキ兄が笑った。

「えっ」

想定外のことに一瞬足が竦む。その隙を突かれ、ユキ兄が私の腕をつかみ、すごい力で車にひきづり込んだ。ドアは自動で閉められ、何事もなかったかのように走り出した。





「久しぶりだね、柚子。元気そうで何よりだ」

聞き慣れた声は、久兄のものだ。運転席で上機嫌に笑いながらハンドルを切っている。

「だが、連絡も寄越さないのは考え物だな。体も本調子じゃないだろうに、あまり外で遊びまわるのもどうかと思うよ。ちょっとくらい反抗的なのもかわいいが、我々は忙しいんだから、あまり手を焼かせないでほしいな」
「反抗期なんていらねーだろ」

そう低く呟くのは、ユキ兄だ。私を後ろからがっしり抱きかかえるようにホールドして逃さない。

「あんたが自分で選ばせたいって言うから優しくしてやったら、変な自立心なんか持っちまってこのザマだ。最初からこうして閉じ込めておきゃ良かったんだ」
「….…変な薬を飲ませて体力気力を奪ってる時点で、選択肢なんて奪われてると思うけど」

私は震える声でバックミラー越しに久兄を睨む。久兄は笑顔を崩さない。

「覚えているかい、柚子。君がまだ5歳の時、自転車を乗る乗らないでユキと喧嘩になったろう」

覚えている。私は補助輪は恥ずかしいから練習させてくれと頼んだが、ユキ兄は危ないと言って補助輪なしの自転車に乗せてくれなかった。口論する私達に、久兄が「私が運転する車に乗ればいい」だなんて少し的外れな選択肢を提示して、私が「そーいう意味じゃないの!」と小さな癇癪を起こした記憶がある。

「あの時も君は早朝にこっそり自転車に乗る練習をして足に擦り傷を作っていた」
「知ってたの……?」
「私がただ仕事にかまけて可愛い弟達を放任するような無責任な男に見えるかね。私には君達を安全な場所で守り育てる義務がある」

つらつら述べる久兄は気付いていない。バックミラーを見つめる私の表情が引きつっていることを。そのミラーには、早乙女金融の事務所を華麗な推理と圧倒的な力業で乗っ取った自称探偵事務所の助手である化け物が、天井からバックガラスを笑顔で覗き込んでいる様子が映っていることを。

「私の考えは今でも変わっていないよ。君の考えは尊重しよう。ただ、それは君が私の目の届く範囲で安全と分かっていることが条件だ……どうかしたか?」
「う、ううん。何も」

久兄がちらりと視線を上げた瞬間に、化け物が頭をひょいと引っ込める。私はブンブンと首を振る。ユキ兄が怪訝な表情で私の顔を覗き込み、必死で平静を装った。あの男、あの角度から覗き込んでいたということは、今もこの車の頭にハリウッド映画さながら貼り付いているというわけだ。何であの化け物がここにいる? 私を追って? うるさい心臓の音がユキ兄に伝わっていないことを必死に祈り、身を縮める。

「自転車に乗るために早朝に練習するくらいの、ちょっとしたお転婆なら構わない。だが、夜に危ない乗り物に乗る練習を、危険人物とするのは話が別だ」

そんなこんなしている時に、私は見つけてしまった。ピンク色のカタツムリのような、この世のものとは思えないような虫が足元を這いずりまわっている様子を。悲鳴を息と共に飲み込む。この虫、事務所を立ち去る時にも見かけた。つまり、この虫こそあの化け物の手足であり、この虫がいたから私を見つかられたということ?

「そうした行動と天秤にかけ、トータルで考えて家にいさせた方が安全と判断したから、君が心地よく家に居られるよう、化学の力を借りただけだ。それの何が悪い?」

久兄の言葉で現実に引き戻される。途中からは化け物のせいで、半分くらいしか聞いていなかったが、要は自分はちっとも悪くない、保護者として当然の措置を取ったまでだ、と。そしてそれを曲げるつもりもないと言いたいらしい。
彼に口論で勝てた試しがない。久兄はいつも冷静で頭が良い。今日私を捕まえたように、相手の何手先も読んで布石を打つことで徐々に追い詰め、負けを認めざるを得ない状況を作り出す、戦術の天才だ。後から思い返してみてようやく「彼の掌の上で転がされていたんだ」と気付くほど、巧みに自然に、密やかに誘導する。その技から逃れられたことはこれまでだって、今この瞬間だって、ない。これからも同じかもしれない。
でも、今ここで引いたら一生過保護な兄と箱入りな妹の関係で終わる気がする。そんなのは嫌だ。それに、思わぬ形で舞い込んできた「手札」もある。私は口をそっと開いた。

「……久兄が私たちのこと一生懸命育てて、守ってくれてたのは分かってる。そのために必死に働いて、しなくても良い苦労をして……ユキ兄だってずっと私を守ってくれて……大好きだし、感謝してる」

ユキ兄の腕にぎゅっと力が篭る。

「でも私はやっぱり、人形みたいに生きたくない。私だって勉強や射撃を頑張ってきたんだから、何か役に立てることはあるはず。兄さん達の役に立ちたいし、でもそれだけじゃなくて、家族以外の人とも関わって生きていきたいの」
「家の手伝いをしてくれたり、安全な場所で笑ってくれるだけで嬉しいよ」
「そうじゃなくて」
「俺たち以外と関わりたいなら関わればいい。吾代や匪口以外でな」
「それじゃ意味がない!」
「柚子」

聞き分けのない子どもに噛んで含めるように久兄が言う。

「君の良さも限界も、君が思う以上に私が全てを知っている。私に任せていれば、幸せになれるんだ。私の言うことを聞きなさい。いいね?」

久兄の笑顔が、あの冷たいものになっている。傷跡を晒したあの晩と同じ、それ以上の言及を許さないという強い拒絶の意思。ユキ兄の体がぶるりと震えた気がした。私も今までの癖で、思わず口を閉じ、下を向いてしまう。まるで、パブロフの犬のように。

そうだ、こんなのパブロフの犬だ。こんな気持ちになるのは、ただの条件反射だ。自分の思い込みだ。
今までの努力とか、皆で築いてきた人間関係とか。そんなものなんかに負けて、失いたくない。

私はしゅんとした顔で下を向き、力を抜く。ユキ兄も久兄もそれ以上は追求してこない。静かな車内で、エンジン音だけが響く。

やがて、赤信号のため車が速度を徐々に落としていく。停車した時、私はちらりと足元に視線をやった。

「……ユキ兄」
「ん」
「足元に変な虫がいる。見たことないやつ」

少し警戒したようなユキ兄。私の拘束を緩めず少しだけ前屈みになり、「うわ、何だこれ」と驚きの声をあげる。

「こんな気持ち悪ぃの、見たことねーな」

そう言って身をよじらせつつ目を細めた瞬間。
私は思い切り彼の頭に頭突きをした。

「っつぅ……」

食らったダメージはユキ兄も私も同じ。違うのは、心算があったか否か。私はクラクラする頭を抱えながら緩んだ腕から脱出する。縺れるように車の外へ転がり落ちた私へとユキ兄が手を伸ばしーー空を掴んだ。

「柚子!」
「大丈夫だ、ユキ。想定内だよ」

駆け出す私の背後で、焦るユキ兄と落ち着くよう声をかける久兄の声が遠く聞こえる。そうだろう。久兄は相手の何手先も読む男だ。私が途中で脱走することも想定内だろう。現に、後続の車から黒スーツの男たちが次々に降りて、私へ向かって走り出してきている。
ただ、さすがの久兄も、人外の存在までは考慮していないはず。
私の切り札は、きっとそれだ。

助手の男は車のヘッド部分からは降りているようだ。いつのまにか路地に向かってゆっくり歩いている。私はその背中を追いかけた。彼は歩いているはずなのに、なぜか走っている私が追いつけない。奥へ奥へと誘導されていく。彼には一向に追いつけないのに、後ろからやってくる足音はどんどん近づいてきている気がする。追われながらにして追いかけるのがこんなに精神的に消耗することだとは思わなかった。あがる息を必死でコントロールしながら、私が彼を追いかけてT字路を左に曲がった時だった。

「捕まえた」
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ