子犬のワルツ

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 進路希望の紙に何を書くか全く迷わない人間は、ごく少数だ。大多数は多少悩み、それから適当で無難な答えを埋める。でも正直、俺にとってはどうでも良いことだった。
 俺には背広を着て決められた時間内に出社し決められた内容だけをこなす会社員なんて似合わないし無理だ。SEも悪くはないが、作りたいものなんてない。フリーで食いつぎつつ、火遊びをして適当に楽しく生きていく。きっと俺にはそれが合っているんだろう。

「犯罪」

 ぽつりと呟く。心の奥底に隠しこんでいた傷がうずいた気がして、顔をしかめる。溜め息をつき、陰気な思考を振り払った。
 その時、何かが落ちたような硬い音がした。思い出したくないトラウマから意識を逸らすように、俺は音の原因を探す。その時、前に座っている早坂が身をかがめた。どうやらこいつがペンを落としたらしい。拾ってやろうかと腰を浮かせた瞬間、彼女のプリントが目に入った。

「……まじで?」

 そこに書かれた文字に、俺は思わず呟く。まあ確かにこいつは相当のブラコンだけど、これはギャグとして取っていいんだよね? その声に反応したのか、中腰の早坂がこちらを振り返った。目が合い、俺はとりあえず愛想笑いを浮かべる。睨まれた。笑顔が少し引きつる。が、彼女はそれを確認することもなくぷいっと前を向き椅子にきちんと座りなおした。あれ。俺、もしかして相当嫌われてる? むなしく心の中で呟いたその時、担任が「書けたか? プリント回収するぞー」と声をかけた。




「あ、ちょっと待ってよ!」

 その日も早坂は、終礼が終わった瞬間に教室を飛び出した。俺は慌てて鞄を引っつかみ彼女の後を追いかける。走って逃げられてしまったら、筋肉のない俺には間違いなく追いつくことは出来なかっただろう。けど幸いなことに、彼女はただ早足で歩いていただけだったため、しばらく走ったらやがて追いつくことが出来た。

「待てったらー、早坂ー」

 息を切らせて彼女の隣につくと、彼女はちらりとこちらを見て「これくらいの距離でもう息切れしてんの?」と呟きさらに歩くスピードを上げた。お、鬼。

「情けない男」
「おまえが待ってくんないからじゃん!」
「は? 何で私があんたを待たなくちゃいけないわけ、天才くん?」
「天才天才って、事あるごとにそれを持ち出すのはいい加減によせよ。ま、俺のIQが高いのは事実だけど」
「……あんたさ、何でそんなに私に構うわけ」

 ぼそっと早坂の漏らした声のトーンがあまりにも低かったので、少し不意を突かれた。

「IQが高くて天才で社交的な匪口くんには、私以外にも友達いるんでしょ。だったらそっちに行けばいいじゃない」
「いや、あいつらと俺、正直あんま合わないし、おまえとだったらもっと仲良くなれそうな気がすんだよね」
「私よりは合うよ」
「いいや、おまえの方が合うね」

 自信満々に言ってみせれば、早坂がちらりと怪訝そうな視線を向ける。

「何で?」
「俺もおまえも裏の世界に片足突っ込んでるからだよ」
「何それ、意味わかんない」

 俺の適当な誤魔化しに呆れたのか、彼女は不満気に息を吐き出す。

「それよりさ、早坂。満点取って、大好きな兄さんには褒めてもらえた?」
「え……」

 早坂の顔がなぜかすこしくもった。

「うんまあ、ユキ兄には頭撫で撫でしてもらえたよ」

口の端に甘えたな口調が見え隠れする。

「よくやったなって頭を撫で撫でしてもらえたんだ。柚子は頭が良いなってユキ兄が褒めてくれて、もう私幸せすぎて死にそうになったんだ。久兄は仕事が忙しそうだったから、話してないけどーー」
「上の兄さんだっけ? 忙しいんだ?」
「うん。役職ついてるし、無能な上司のせいで仕事量が多いんだって。だから最近会えてないけど……だからこそ、早く優秀になって会社に入って、兄さんを支えないとーーって」

 急に彼女は立ち止まり、不審そうな目でこちらを伺う。俺は「何?」と首をかしげた。

「何、じゃなくて」
「ん?」
「どうしたの」
「何が」
「その……何か、変」
「変?」

 その言葉に、胃の底辺りがざわめいた気がした。俺は笑みを浮かべようとしたが、口の端が引きつって、どうしてもうまく出来なかった。

「そんなに私の兄さん談義が羨ましいの?」
「は?」
「うん、分かるよ、誰だってこういう完璧な兄さんは欲しいもんね。でも、駄目、私の兄さんだから、あんたには絶対あげない」

 見当違いのことを並べ立てる彼女の言葉に俺は苦笑し、その後で「いや、その通りかも」と考え直した。俺の脳裏には、満点のテストを見せても興味のない視線で一瞥しただけの両親が蘇っていた。

「俺には褒めてくれる両親も兄弟もいなかったからさ」
「へえ」

 早坂は眉を吊り上げた。

「あんた両親いないの」
「あ、別に同情とかいらないから」
「別に同情なんかしないし」

 何に腹を立てたのか、ここで彼女はきっと俺を睨みつけた。

「私が兄さん以外の人間に興味を持つわけないでしょ。何で私があんたに同情なんかしてあげなくちゃいけないの」
「何で俺こんなに怒られなくちゃいけないの」
「ふん」

早坂がそっぽを向く。でもその横顔は、無関心というよりは考えを巡らせているかのように瞳が揺れていた。

「……私も親はいないけど」

沈黙の後に、早坂がぶっきらぼうに口を開いた。
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