子犬のワルツ
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「そんじゃいってくるわ」
「いってらっしゃい。あ、吾代さん、吉村鉱業に今日行く?」
「ああ、行くけどなんで」
「経費使いすぎだから見直すように言っといて。勘定科目は赤く印つけてあるところ。あの規模の会社なら右の数値に収めてもらって、無理って駄々こねるようなら軽く締めて」
「ふーん。確かにパッと見多そうだな。分かった」
吾代さんが書類を受け取りさんきゅ、と言う。私はそれがくすぐったくて、緩みそうになる顔をそっぽ向いて隠した。
「数字に弱い吾代がカッコつけて分かったふりしてんぞ〜」
「うっせーこんくらいの資料俺だって見りゃわかるんだよ!」
「小卒がなんか言ってんぞ」
「高校中退してるてめーに言われたくねー!」
一緒に集金に行く豪田さんがからかい、吾代さんが中指を突き立てる。西村さんが「柚子ちゃんの資料の賜物だな」とボソリと呟く。
「どいつもこいつもうるせーな! 俺だってやりゃ出来んだよ!」
吾代さんがデスクの上で何かを探している。集金前だというのに騒々しいことだ。
「何探してるんだ、吾代」
「今月の帳簿だけど……っかしーな、確かにこの辺に」
「ああ、それなら落ちてたぞ、吾代。気をつけろ」
「あ、あざっす、鷲尾さん」
書類を受け取ると私に「ほらよ」と書類を放ってよこす。
「それ、てめーが今から整理しようとしてた今月分の帳簿だ」
「……ありがと」
「これで今日は早く上がれるだろ。飲みに行くからおめーも来いや」
「いや、仕事内容が起票から添削に変わっただけで、多分仕事量的には全然変わらないと言うか、むしろ増えたと言うか」
「んだとてめー!」
「吾代に計算をさせるとろくなことがないからな」
「んだよ! どいつもせっかく人が気を使ってやってんのによ!」
社長の茶々に吾代さんがむくれる。まあ飲みに誘ってくれたのは、多分、私の人間関係を広く深くしてくれようとしてのことだろう。社長や吾代さんとはよく話すけど、他の人とはそこまででもないから。そして私も拒まない。お酒は飲めないけど。
「早く終わらせたいならとっとと行ってこい、吾代」
「っせーな。おい、行くぞ!」
豪田さんに声をかけると吾代さんが荒々しく出て行った。私はもらった帳簿をざっと見直した。書き直しがいつもより多い気がする。仕事に焦っていたんだろうか。数値がたくさん上書きされて分かりにくいだけでなく、一の位だけでも既に数カ所間違いを発見し、ため息をつく。集金における駆け引きや同僚との人間関係の積み重ねはうまくできるのに、なぜ基本的な四則演算を間違えるのかは理解に苦しむ。電卓の意味とは。
「柚子、それデスクに置いといて。俺が修正するから」
「いいの、社長。これいつもより時間かかるよ」
「いいよ、おまえ今日報告書溜まってるだろ。そっちを片付けたら上がっていいから」
「ちょっと残業すればできるよ」
「いいから持ってこい」
有無を言わせぬ口調。強引を装った優しさに私はそれ以上何も言えなかった。上の言うことを守ってるだけだと同僚からはよくいじられるが、部下の世話や尻拭いはきっちりやってくれることは皆分かっている。そんな彼だから皆ついていくんだろう。
でも、そんなに無理して背負わなくていいのに。
「不満か?」
書類を彼のデスクに置こうとした時にそんなことを不意に言われてどきりとする。
「相変わらず分かりやすいやつだな。顔に書いてあるぜ」
「別に。そんなことしてあんた1人遅くなるくらいなら、私に仕事を振ってくれたほうが皆早く帰れて効率良いのにって思っただけ」
「いつもならそうしてるが、あの吾代が苦手な計算に手ェ出して気を回したんだ。余計な仕事は増やしてくれたがな、報われてやんねーと可哀想じゃねーか。それに最近残業しすぎだおまえ」
「そんなの気にしなくていいのに。それくらいしか私の役に立てることないし」
そんな理由かと思い引っ込めようとした書類をさっと奪われる。
「ガキが余計な気を回すんじゃねーよ。てめーは常に自分を責め立てなきゃ気の済まないマゾなのか? だからあの腹黒兄貴共に付け込まれるんだよ」
どきりと心臓が跳ねたのは、自分でも気づいていなかったけれど、言われて図星だと思ったからだ。
大好きだった兄さん達から離れ、兄さん達の役に立つという自分の存在意義に迷い、お仕置きもされなくなって罪悪感の行き場を失っている。言われてみれば確かに、自分の空虚さに耐えかねて、仕事に自分の意義を全振りしている部分があるかもしれない。仕事をしているときは全て忘れていられるから。
「もっと気楽に行けよ。見ているこっちが疲れちまう。だから吾代も計算を肩代わりしようとしたんだろ。今日はさっさと上がって気を抜いてこい」
追い払うように手をひらひら振ってみせる。
「心配しなくても十分助かってっからよ」
「社長もそう言ってることだし、好意に甘えちゃいなよ」
鷲尾さんにまでそう言われてしまい、私はすごすごと自席に戻る。
気持ちは嬉しい。理屈も理解できた。でも納得は出来ない。だって、社長達に受けた恩義はこんなものじゃ全然返せてない。
ただ、この場での上司は社長だ。これ以上食い下がる訳にもいかない。私はもやもやした気持ちを振り払うと目の前の仕事に意識を戻した。