子犬のワルツ

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電車の中で地図アプリを開き、周辺の地形を確認する。ブラッスリー中村が位置するのは大通りから一本入った裏の通り。入り口を狙えそうな雑居ビルは4つあり、そのうち逃げやすそうな場所が1つ、紛れやすそうな場所が1つだ。逃げやすそうなところよりも紛れやすそうなところの方が良い。相手の警戒体制は未知数だし、若い女の子が銃を持って狙っているなんて誰も思わないだろう。


携帯で調べている間にもユキ兄から何通もメッセージや着信が届いていた。私は一言「友人がふざけただけ。少し遅くなるけど心配しないで」とだけメッセージを送り、あとは全部無視している。電話やメッセージが鳴るたび内蔵がよじれ、手先は冷たくなっていくが、全てを解決したら許してくれるだろうと期待するのは考えが甘いだろうか。


18時45分、電車のドアが開き、走りながら現地へ向かう。18時50分、現地に着く。ブラッスリー中村の前には黒塗りのベンツが1台駐車している。最低5人はいるだろうが、大物と商談する場合はもっといると考えたほうがいい。そういえば、斉藤銃一が商談する相手って誰なんだろう。もっとお金があれば訊けたんだろうか。お金は力だ。大学生の私には限界がある。


予備校に何食わぬ顔をして入り、非常階段を駆け上がる。4階まで上がってフロアに入り、北の方角を確認する。男女それぞれに個室トイレがあり、女子トイレに入ると、洗面台があって奥に個室のトイレと小窓が設置されていることがわかった。個室に入ると、鍵を閉め窓を少しだけ開ける。


ブラッスリー中村の前は相変わらずガランとしている。18時55分。いつ来てもおかしくないし、もう来てるかもしれない。

携帯を取り出すと、ユキ兄から更に着信が入っていた。笹塚さんや吾代さんには会わなかったらしい。少しホッとすると、あらかじめ調べてあったブラッスリー中村の電話をかける。


「もしもし。19時に予約をした斉藤という者ですが、少し遅れそうで。もう来ていますか? 斉藤で予約してないと。別の名前ですかね……ああ、1組だけですか。あ、そうそう、角坂です。誰か来てますか? ……誰も来てないですか、分かりました。とりあえず少し遅れるとお伝えください」


店員に名前を尋ねられたが、聞こえなかったふりをして電話を切る。誰も来てないとのこと。他に予約の組はないとのことだから、ほぼ未着と仮定して良いはず。


窓の隙間から目を離さないようにすると、鞄の中から銃を取り出した。こんなに高低差のあるところから撃つには経験が足りないが、やるしかない。深呼吸をして待つこと10分。それらしい人影はまだ現れない。


見逃したかな。遅れてるだけかな。じっとりと汗ばむ手のひらをハンカチで拭った瞬間、ドアの開閉音と共に誰かが入ってきた。

一瞬心臓が跳ねたが、私は個室の中。すぐに顔を合わせることもない。女生徒なら問題ないだろう。しばらく個室で息を潜めるが、女生徒は出て行くそぶりを見せない。用を足したふりをして出るか? いや、あまり人に顔を晒したくない。


「すみません、体調が悪くて動けなくて、他の個室を利用したほうが早いかと」


低い声でそう囁く。女生徒は何も言わなかったが、少しの沈黙の後にドアの開閉音が再びした。しばらく様子を伺うが、完全に無音だ。去っていったらしい。


ホッと息をつく。だが何度も同じ手は通用しないし、邪魔されても面倒だ。私は鞄からノートを取り出すと一枚破き、ボールペンで故障中と書いた。廊下に出れば、画鋲かセロテープは調達できるだろう。それでドアに貼り付けて、一時を凌ごう。

外の様子を一瞥すると、銃は鞄の中にしまい、雑用はさっさと済ませようと個室のドアを開ける。


そして、心臓が止まるかと思った。


「長かったな、お嬢ちゃん」


黒いスーツに身を包んだ凶悪顔の「男」がニタァと笑った。咄嗟に個室のドアを閉めるが、巨体に押され閉められなかった。銃を入れた鞄がドアに挟まれる。武器がない。


スカートの中に持っていたナイフに手を伸ばしながら後ろに下がる。スペースがない。男が拳を突き出し、私のナイフをはたき落とす。そのまま膝が腹に入り、意識が遠のく。

準備不足だったし甘く見ていた。悔やんでも後の祭りだ。




目が覚めると、見覚えのない施設にいた。打ちっ放しのコンクリートで覆われた小さな部屋。時々黒い汚れが床に付着している。窓はなく、蛍光灯はチカチカと点滅している。古いビルの地下駐車場のようなかびたにおいが鼻をくすぐる。冷たい壁に寄りかかった背中から体温を奪われていき、私はぶるりと体を震わせた。


手を動かそうとして、後ろ手で縛られていることに気づく。手錠じゃなく、何かの縄だ。なけなしの知識を振り絞り前に持ってこようとしたが、手足の力が抜けていて動かせない。徹夜明けの睡眠中にうっかり目を覚ましてしまったかのような体の重さだ。それに、何だか頭も怠くてぼうっとする。思い通りにならない体に心ばかりが焦ってくる。


部屋の四隅を見上げると、案の定監視カメラが稼働していた。今が何時か分からないが、私の行動は筒抜けな可能性が高い。


「大好きな兄さん達に迷惑をかける前に、ここを逃げ出さなきゃ」


考えていたことではあるけど、私の声じゃない。目線をあげると、扉の上部にある小窓からニヤニヤと覗き込んでいる男の姿があった。


「はじめまして、早坂柚子さん。俺のことはご存知かな?」


さっき私を気絶させた男だ。私は不快感を露わに睨みつける。


「あんたが斉藤銃一?」

「まさか。ただのしがないサラリーマンさ」

「ただのサラリーマンが斉藤銃一のことを知ってるわけないでしょ」

「それもそうか」


くつくつ笑うと扉を開けてこの部屋に入ってくる。扉の陰から他の見張りらしき男がちらりと見えた。


「私は君のことを知っているよ。君の兄さん達には大変お世話になってるからねえ」


ゆっくり近づくと顎を掴み私の顔を上に向かせる。


「君は特に弟にそっくりだね。顔を見てすぐ分かったよ。涼しげで生意気そうで、本当に……忌々しい」


強い衝撃と共に横に倒れこむ。脳天まで揺さぶるような強烈な平手に、思考が一瞬止まる。


「大学生の君が予備校のトイレに籠って、こんなおもちゃを手にして、何をするつもりだったのかな? え? それに、妙な電話までかけて。あそこはウチの息がかかってるから筒抜けなんだよ。そういうことは過保護なお兄様達からは教わんなかったのか?」


倒れ込んだ私の頭をぐりぐりと踏み躙る。男だ女だ言うつもりはないけど、なんの躊躇いもなくこんなこと出来るなんてこいつ、絶対性格が悪い。痛みより屈辱に唇を噛む。


「お兄様の教育が足りなかったようだねェ。大人の世界は努力や愛情でやっていけるほど甘かないんだよ。良い勉強になったねぇ」


男はそう嘲笑うと、私の胸倉を掴み「さぁて、裏の世界に足を踏み込んだお嬢ちゃん。色々聞きたいことがあるんだ」と揺さぶった。



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