子犬のワルツ

□15
1ページ/2ページ


「前回の授業でも伝えた通り、人間の脳をトレースすることは至難の技だ。世界一のスーパーコンピュータですら、人間の脳が1秒間に行う活動の1パーセントをシミュレートするのに40分もの時間をかけたという」

教室の前にいる人間は教授の声に陶酔し、後ろの人間は舟を漕ぐ。私は最後列で全体を見渡しながらぼんやり話を聞いている。空調が効いていないのか、湿気が纏わり付いて息苦しい。

「17.6億ものニューロンからなるネットワークの織りなす計算は、スーパーコンピュータをもってしても難しい。君たちの平凡な脳ですらもそれだけの価値があるということだ。たとえ、ソーシャルゲームやSNS映え、セックスを求めるだけの単調な生活を送っているとしてもな、ククク……」

教授は完全に馬鹿にして笑うが、私は一切笑えなかった。やる気がないままただひたすら学校と家を往復するだけの日々が続くのだとしたら、私もただ遊んでいる学生と何ら変わらない。むしろ、楽しみが少しも見出せていない分、より無意味で惨めな人生を送っている気がする。

「だが、考えてもみたまえ、逆に言えば、君たちにはスーパーコンピュータを上回るポテンシャルを持っているということだ。目的を持ち行動に起こせば、君たちの人生も少しはマシになることだろう」

最近、幸せだった頃のことを思い出してばかりだ。どうやったら戻れるだろう。久兄に甘え、ユキ兄とじゃれ合い、社長と仕事について話し、吾代さんにお節介を焼かれ、射撃場で練習をしては上達を噛み締め、匪口とふざけ合う日々に。
あの頃はひたすら将来兄さん達の役に立つことを信じて疑わなかった。それが今はどうだ。現実は、久兄が襲われて死にかけたとしてもしばらく経ってからようやく気付く役立たずでしかない。バイトも銃もハッキングもそのためにやってきたというのに。
……ハッキング?

「さて。コンピュータが人間に勝てるものは何だろうか。答えは時間だ。単純な計算ならば速度は人間の何倍も上回る。また、エネルギーさえ供給すれば、長時間動き続ける。人間なら息継ぎをしなければならないところを、潜水艦なら息継ぎ無しで自由自在なのと同じだ……」

思考回路が急激にクリアになる。
望月信用調査の強みは広い人脈だ。関係者は幅広く、裏表関係なく口コミで情報を吸い上げ、あっという間に真実を導き出す。地上じゃ無敵な陸軍だ。
一方匪口は水面下では自由なイルカのようで、緻密な計算を大胆に操りネットワークの世界を自在に泳いでいた。そんな彼の鮮やかな手口を見ていた私も、彼ほどではないがある程度小回りが利く。それに、早乙女金融での仕事で、僅かな情報から1つの真実を手繰り寄せることには慣れている。
ハッキングをすれば、久兄の仇を、ユキ兄たちとは違う角度から見つけ出すことが出来るかもしれない。
そして、早乙女金融で身につけた危機対処能力や射撃の腕前を発揮すれば、久兄の襲撃犯を捕まえ、倒せるかもしれない。
そしたら、久兄を守れるし、実力を認めてもらえる。兄弟仲は修復し、兄さん達の役に立つポジションを獲得できるはず。うまくいけば、早乙女金融や匪口との付き合いも許してもらえるかもしれない。

……匪口に関しては、再び友人に戻れるかどうかなんて分からないけど。
それに、情報そのものを資産とする兄さんの会社にハッキングをするなんて、とんでもない裏切り行為な気もしなくない。危険なことをしたとなったら後で更に怒られるんじゃない?
弱気な気持ちが湧き上がる。望月信用調査も無能じゃない。ユキ兄なら久兄の襲撃犯を執念深く追いかけ確実に制裁を与えるだろう。私はそれを遠くから見守り、大人しく自分の今まで通りの生活を続ければ良い。大人しく大学と家、そして事務所を往復する生活を続け、ユキ兄に小言を言われ、たまにお仕置きという名の罰を受けるだけの抜け殻のような生活を……

「そんなのは、嫌だな」

溜息をつく。一度見た夢はなかったことにして忘れるにはあまりにも完璧で甘かった。リスクは確かにあるが、自分にそれが出来ないわけじゃない。今まで努力してきたのはきっとこのためと言っても過言じゃない。

私はもう迷わなかった。
兄さんの襲撃犯を見つけて、倒そう。

自分の心臓の鼓動が妙にはっきり感じられる。久々に体にエネルギーが湧き上がってくる。私は閉じていたパソコンを開き、電源を入れた。立ち上がりが妙に遅く感じる。もう春川教授の声は耳に入ってこない。

望月信用調査の新卒採用ページを開き、でたらめな名前で登録する。返信メールからドメインに見当をつけると、自作ソフトを活用して、名前と苗字とドメインを組み合わせ、パスワード変更のお知らせを装ったメールを大量に送った。
宛先エラーで6割程返ってくるが想定内だ。ぼちぼち返ってくるメールを見てほくそ笑む。望月信用調査の社内ネットワークの構成はもう押さえてあるから、パスワードさえ分かればあとは簡単だ。
適当な人間のパスワードを打ち込み、社内のポータルサイトに侵入した。組織図を確認しながら、メールを返送した人間を選別していく。この人が良さそうだ。総務部のシニアスタッフであり兄さんの秘書。この人の権限をもって社内のフォルダに入り込んだ。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ