子犬のワルツ

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「おかえり、ユキ兄」
「ただいま、柚子」

ユキ兄はもう春だというのに厚手のコートを着ている。家では流石に脱いではいるが、外は暑くないんだろうか。ただ、ハグした時に触れた指先は冷たくひやりとした感触が広がった。

「体冷えてるね。ご飯にする? お風呂にする? それとも私?」
「柚子」
「冗談だよ」

私は苦笑してみせると、「シチューよそうね」と一言離れようとする。
が、ユキ兄の腕は私に巻きついたまま離れようとしない。

「ユキ兄?」
「だめ?」

甘えるようなユキ兄。最近は兄というよりは弟のような一面を見せてくる。

「だめじゃないけど、シチューよそえない」
「だって寒い」
「シチュー飲んだらあったまるよ」

キッチンへ向かうため踵を返すと、ユキ兄はぎゅっと後ろからひっついたまま移動する。

「柚子、痩せた?」
「え、うーん、どうかな」
「ちゃんと食えよ」
「食欲ないんだよね」

季節の変わり目だからかなと流そうとするが、ユキ兄は笑わない。「まだあいつのことわすれらんねーのかよ」と口を尖らせた。

「あいつって?」
「あの匪口とかいうもやし野郎だよ」

私は答えない。匪口が妙に恋しいのは悔しいけど事実だ。でもそれを兄さんの前で認めたら機嫌が悪くなるに決まっている。それに最近の気がかりの半分は、家に寄り付かない割に過干渉をしてくるユキ兄に対するちょっとした……違和感を持っているだなんてこと、もっと言えない。

「あいつはおまえを裏切って刑事になったんだ。そんな奴のことは忘れろよ。信用できるのは兄弟だけだ」
「……うん」

ユキ兄の断言が妙に薄っぺらく聞こえる。私がユキ兄に抱く違和感はこれだ。兄さん達は私に裏の人間や事柄と関わって欲しくないと言いながら、匪口に関わる時だけやたらと裏社会と関わりを持つ私を裏切り刑事になったと強調する。
更に、社長が言うには、兄さん達の会社は実は警察OBが取締役を担っているため、警察と癒着しているとのこと。上層部だけの話かもしれないが、そんなことをひた隠しにして、刑事になった匪口を裏切り者扱いしたことを恣意的な印象操作と捉えるなんて、少し穿った見方だろうか?

「なんだよ、何か言いたいことでもあんのかよ」

ユキ兄の挑戦的な口調。萎縮しそうになる心を奮い立たせ、手を振りほどき向き合うと、いつになく鋭く私を睨むユキ兄と向き合った。

「ユキ兄。ユキ兄の会社の望月社長って警察OBなんでしょ? だったらユキ兄の会社と警察が敵対することはあんまりないんじゃないの?」

ユキ兄はすぐには答えない。動揺した素振りも見せずに「誰から聞いた?」と尋ね返す。

「誰からでもいいじゃん」
「社長は情報の扱い方には人一倍敏感でな、警察関係者か裏の人間か、知ってるやつは限られてるんだよ」

ユキ兄が一歩私に近づき、右の手首をぎゅっと掴まれる。

「おまえ、今日事務所に行ったろ?」

一瞬否定したくなった。心臓が少し早まるのが自分でも分かる。手首を掴んでいるユキ兄にも伝わっているかもしれない。
この後の流れは分かる。不機嫌になり、怒り、嘆き、説教された後、機嫌が直れば優しいユキ兄に、直らなければそのまましばらく口も聞いてもらえなくなる。どちらにせよガリガリ精神が削れて、後にはちょっとした不満と疲労と罪悪感だけが残る、憂鬱な時間だ。
でも、嘘をついても100パーセントバレるし、もっと酷いことをされると分かっているから、嘘はつけない。

「行った、けど」

ユキ兄の目が細まり、私は慌てて「別にいいじゃん。久兄や社長は一応許してくれてるんでしょ」と盾を用意する。

「構わねーよ。アニキは禁止してない。でもあんなあぶねーとこに俺はいかねーでほしいってこんなに頼んでんのに、おまえはちっとも分かってくれないんだな」
「それは申し訳ないけど。でも大学生だからバイトくらいいいじゃん」
「高校生の頃から俺たちに黙ってやってたよな」
「それはごめんって」

その話を持ち出されたら、私は肩を縮めるしかない。ユキ兄は更に私に一歩近づく。

「おまえ、あいつらがおまえがいないところで何してんのか本当に知ってんのかよ?」
「知ってるよ」
「ほんとかよ」

ユキ兄が私の手をすっと引っぱった。

「あいつらの借金を払えない奴らは全員骨の髄までしゃぶられる。チャイニーズマフィアのリューイチって分かるだろ? あいつの配下の会社に売られて、髪の毛一本残らねえ。まず睡眠薬で眠らせた後、スーツケースで運ばれてさ、」
「ユキ兄、やめて」
「女はソープに沈められることが多いらしい」

こういう時のユキ兄は容赦ない。むしろ愉しんでいるかのように口の端を吊り上げてすらいる。

「まあでもそれならまだマシなほうだ。酷いとこだと薬を打たれて廃人にした後、赤坂のナイトクラブで服を脱がされてさァ」

ユキ兄の指が私の頬をなぞり、下へすうっと降りていく。

「やめてったら」
「その時どこに薬が打たれるか知ってるか? ここだよ。ここに注射針が」
「ユキ兄!」

ユキ兄が私をそんな目に合わせるはずがないのに、あまりにも冷たい目で、淡々と話すものだから。
私は我慢ができなくなり、ユキ兄の体を押し戻す。

「分かったから。私が悪かったから、そんな顔でそんなこと話すの、やめてよ」
「……分かったならいい」

ユキ兄は満足したのか、私から少しだけ離れ、怖かったか?と顔を覗き込む。体の震えが収まらない私は黙って俯いた。

「ごめんな。でも、おまえのためなんだよ。あんなとこにいたら、絶対いつかおまえにも火花が降りかかって後悔する。まともな精神してたら、そんなとこで妹を働かせたいと思うかよ」

ユキ兄がぎゅっと私を引き寄せた。

「役になんて立たなくていい。働かなくても俺らが一生面倒を見る。大学だって、行きたくないならやめちまえ。おまえは俺たちのすぐそばにいてさえくれれば、それでいい」

ユキ兄の声は優しい。

「だから、頼むからおまえだけは俺を安心させてくれよ」

昔よくされたみたいに頭を撫でられる。
嬉しい温もりのはずなのに、心の底からは安心できない。でもそんな気持ちを表に出すことも出来ず、私はされるがままになっていた。
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