子犬のワルツ

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「知能を作り出すということは、生物そのものを創り出すことに似る。双方とも0から作ることは至難の極みだ。今の技術じゃアメーバ一匹創ることも出来ないし、プログラムされた人工知能では、チェスに勝つので精一杯だ」

大教室の前に登壇し低い声で語るのは、春川教授。日本の脳科学の第一人者であり、化学、物理学、医学、コンピュータサイエンスなどあらゆる分野に精通している時代の寵児、いわゆる天才だ。腹立たしいが、斬新な仮説は理路整然とした語り口調と根拠に完璧に裏付けられており、話としてはかなり面白い。今は技術が追いつかないが、アインシュタインやホーキンス博士のように後世にも語り継がれる学者になるだろう。

今まで受けた講義の中で一番面白くためになるというのに、私のノートテイクは一切進んでいなかった。
兄さんのためにどんな知識でも吸収したいという気持ちはあるはずだけど、それを果たして兄弟が望んでいるのかと訊かれたら、自信を持って答えることもそれでもと突っ走る強さもいつのまにか消えてしまった。
久兄にはますます会う時間が減り、ユキ兄は早乙女金融への出入りに今まで以上に良い顔をしない。電話の回数も不機嫌そうな顔も増えた。大学にいても前のような意欲が湧かないし、バイト先でも何となく居心地が悪い。家でも前ほど心が安らげなくなった。どこでどう間違えたのかは分からないが、自分が今なぜ、何のためにここに居るのか、そもそも居ていいのかすら分からない。

「脳内の電気信号を正確にトレースすることができるのなら、最高の知能もいともたやすく生み出せるのだ」

最高の人工知能を兄さん達のために研究開発したら喜ぶかな。自信はない。
高校生の時はこんな惨めな気持ちに苛まされることもなかった。兄さん達のためと信じて何事にも全力で打ち込んで、笑って、悪戯して、馬鹿やって……

最後の最後で喧嘩別れをした友人を思い出し、振り払う。あいつだけはダメだ。ただでさえ今も不安定なのに、兄さん以外にうつつを抜かしたら今度こそ取り返しがつかなくなってしまう。

「さて、この知能が実際に完成した時、一体どのような事が可能になるのか? それは、次の授業で教えるとしようか」

春川教授がそう言った1秒後に終業のベルが鳴る。生徒たちが慌ただしく片付けを始める中、私はのろのろと鞄を整理する。授業やプログラミングの話はあいつを連想させる。この授業は切ってしまおうか。

「早坂柚子」

頭上から声が降ってくる。私はちらりと顔を上げた。

「君の噂は耳にしているよ。新入生代表の挨拶を断った変わり者の秀才だと」

長身の春川教授が高いところから私を見下ろしていた。シャープな顔立ちに何かを企んでいそうな笑みを貼り付けている。私は片付けを続けながら「興味がなかったもので」と伝えた。

「じゃあ何なら興味があるというんだね。見たところ、ノートは真っさらのようだが」
「話自体は聴いてました。知能を持つ生物を電気信号で再現するんですよね」
「そうだ。さすが入学試験を主席で突破した頭脳の持ち主だけのことはあるな」
「やめてください。努力しただけですから」

ただ、普通の脳みそに出来る限り詰め込んだだけ。それも今となっては意味があるかどうか。

「君はこの計算機に何を求める?」

私がしまおうとしたノートパソコンに手をつき、妨害される。私はむっとした。

「何も求めませんよ。これはただの手段です」

グイ、と引っ張りパソコンを鞄に突っ込む。春川教授は意外にも笑みを崩さなかった。

「その通り。高度な計算も複雑な電気信号も、ただの手段に過ぎない。君とは話が合いそうだ」

ククク、と笑うと「いつでも私の研究室に来なさい」と名刺を机に置いた。

「1と0で世界を構築したその先に何があるか、見せてあげよう」と言い残して。
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