子犬のワルツ
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「おはよ、柚子」
「……はあ。おはよう、匪口」
「え、何その溜息は?!」
そりゃ、あんたの顔を見てたら付きたくもなるわよ。小さくそう呟くと、重い気持ちのまま学校の玄関をくぐり抜けた。どうして会いたくない時ほど、会いたくない人に遭遇してしまうんだろう。
「人の顔見て溜息つくなんて失礼だぜ。しかもこんな朝っぱらから」
「あんたに礼を尽くす義理はないわ」
「ひでー。親しき仲にも礼儀ありっていうだろ」
「そもそもあんたと親しくなった覚えはないから」
ああもう、予定が崩れた。またシミュレーションを最初からやり直しだ。恨みがましい目で匪口を見て、そっと鞄に触れた。中には某チョコレート販売店の小さな箱が入っている。
悩んだ末、「誰からもチョコレートを貰えない哀れで可哀想な匪口にチョコレートを恵んであげても罰は当たらない」という結論に達した私は、久兄とユキ兄よりワンランク下のチョコレートを購入した。けれど、ここからが問題だ。
どうすれば、匪口を調子に乗せないように、かつスマートで自然にチョコレートを渡せるのかが分からない。
普通にぽんと渡してしまっていいのだろうか。それとも、何か気の利いた一言が必要なのだろうか。色々頭の中でシミュレーションしてみるが、これだと思う方法は思いつかなかった。
仕方ない。学校に行って、他の女子が渡す様子を参考にしてからどうするのか決めよう。鞄を持ち直すと、タイミングを図ったように匪口が「あっ」と声を上げた。
「どうしたの」
何気ない様子で隣の下駄箱を覗き込み、私もあっと声を上げた。ラッピングされた手作りのクッキーが、匪口の上履きの上にちょこんと置かれている。これって、もしかして。
「これって、」
「まさかとは思うけど、柚子、これおまえが入れたんじゃないよな?」
匪口がクッキーの袋を手に取り尋ねる。私は慌てて「そんなわけないじゃない」と否定した。
「だよな。おまえ、こんなに可愛くラッピングする柄じゃないし」
「それって褒めてるの貶してるの」
「まあでも、こういう渡され方はちょっと困っちゃうよな」
クッキーをしまいながら匪口が言う。え、何で、と私は反射的に問いかけていた。
「だって、どうせなら直接目を見て受け取りたいじゃん。それに後でこの人に会ったとき、下駄箱にクッキー入れてくれてありがとな、美味しかったよって言うの、なんか格好悪くね?」
「ふーん」
下駄箱に入れるのはアウト、やっぱり直接渡すべき。頭の中で反芻した後、話の続きを促そうとした、その瞬間。
「匪口くん」
背後から可憐な声が響いた。匪口と顔を見合わせ、振り返る。すると、甘栗色の髪の毛を綺麗にカールさせた可愛い女子が、にっこり笑っているのが目に入った。両手には大事そうに小さな箱を抱えている。
「これ、私の気持ち。受け取って欲しいな」
そっと小さな箱が差し出される。私は匪口の顔を盗み見た。匪口は一瞬言葉に詰まっているようだったが、すぐにいつもの笑顔を浮かべると「お、まじ? さんきゅー」と言って箱を受け取った。女子の表情が嬉しそうに緩む。
「食べたら感想、聞かせてね」
「りょーかい」
緩く返事をすると、匪口は箱を鞄にしまい、背を向けて歩き出した。私は慌てて追いかける。
「嬉しい、匪口?」
「ん? まー、チョコ貰えて嬉しくない奴はいないんじゃね?」
歯切れの悪い匪口をみながら、私は想像する。匪口、これ、わたしの気持ち。受け取ってほしいな。そう言いながら箱を差し出す姿を。自分を殴りたくなった。
今のは参考にならない。別の人を参考にしよう。
ところで、参考にする相手はたくさんいた。なぜなら、匪口は今日、ひっきりなしに色んな女子から大小数々の「気持ち」を受け取っていたからだ。
その度に匪口はちらりと私を伺い、笑みを作り、ありがとうと受け取った。恥ずかしがりながら渡す子もいれば、堂々と渡す子もいた。無言で押しつける子もいたし、甘い言葉を可愛い声で囁く子もいた。そうした様々な例を眺めるうちに、分かった事がある。
匪口にチョコレートを渡す理由が、ない。
私は「誰からもチョコレートを貰えない哀れで可哀想な匪口にチョコレートを恵んであげても罰は当たらない」と思ったから、匪口にチョコレートをあげようと思っただけ。決して伝えたい気持ちがあったわけじゃない。それに、私の友だちは匪口だけだけど、匪口は違う。こいつは社交的だし、面白いから、友だちはたくさんいる。そして今日分かったように、思いを寄せている女子も。
そう考えると、チョコレートを渡そうと力んでいた気持ちは萎み、どことなくソワソワしていた自分が恥ずかしくなった。
そもそも、何で私はチョコレートの渡し方をあれこれ考えていたんだろう。匪口に恵むだけなら、そのまま「恵んであげる」と言って渡すだけでいいじゃないか。前までの私なら、他人の事なんか気にしないで自分の好きな様にやって、結果他人にどう思われても構わなかったはずなのに。
「あーあ」
匪口なんかに格好つけるなんて、馬鹿みたい。
最初から兄さん達の分だけ買えばよかった。
溜息をついて空を見上げる。そろそろバイト先に行かないと、また吾代さんが騒ぐだろう。足を急がせる私の横に、ふと誰かが並んだ。
「なーに落ち込んでんの」
「匪口」
てっきりまた他の女子に呼び出されているのかと思っていた。僅かな動揺を悟られないように、別に、と吐き捨てる。
「あ、もしかして俺の事置いて帰ろうとした? ひでー」
「どうだっていいでしょ。私バイトがあるから先行くよ」
「何だよ冷たいなー。結局チョコもくれなかったし」
チョコ。その一言で、心臓がどきんと跳ねる。
「てっきり柚子からも何か貰えると思ってたんだけどなー。期待した俺が馬鹿だったよ」
まるで私が悪いみたいな言い草に、むかっとくる。
「私が悪いの? 大体、他の女子からたくさんチョコ貰えたんだからいいじゃない」
「よくない」
匪口がきっぱり声を上げる。思わず足を止めて彼を見た。
「え」
「よくない。俺、他の誰よりもおまえからチョコを貰いたかった」
匪口の真っ直ぐな視線が刺さる。すごく居心地が悪い、なぜ私がこんな思いをしなければならないのか。けれどその反面、心臓が妙な期待感に鼓動を揺らしていて。何とかしなきゃと、私は言葉を必死に探す。
「食い意地、張ると……お腹、壊すわよ」
「食い意地じゃない、男の意地だ」
「はあ? 意味、わかんない」
「わかんなくても良いよ。元々おまえにそこまでの心理分析は期待してない」
「何それ、どうい」
「チョコ、本当は持ってるんだろ?」
どきり。
今度は誤魔化しようもないほど、はっきり心臓が跳ねた。
「チョコ。俺にちょーだい?」
目をキラキラさせる匪口に、すっかり毒を抜かれる。困ったな、と胸の中で呟く。匪口にチョコレートをあげない理由が、なくなっちゃった。
「仕方、ないなあ」
震える指を鞄に差し入れ、目当てのものを探り当てる。一日中ずっと意識していたから、すぐに取り出す事ができた。
「食い意地の張ってるあんたに、チョコレートを恵んであげる」
ぶっきらぼうで、可愛くない事しか言えなかったけど、これで良い。匪口のために自分を装うなんて、それこそ馬鹿みたいだ。だって、その証拠にほら。
「さんきゅ」
素の自分で渡しても、匪口はこんなに喜んでくれている。今まで受け取ったどの女子の時よりも、嬉しそうに笑っている。胸の奥が暖かく感じて、吊られて私も少し微笑んでしまう。オレンジ色の光に包まれているせいか、世界がいつもより柔らかく見えた。
チョコレートを含んだ口が「美味しい」と綻ぶまで、あと五秒。