子犬のワルツ

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 土曜日の昼下がり。私は朝から不機嫌だった。今日こそはユキ兄とお昼ご飯を食べに行き、ユキ兄の洋服を買いに行く予定だったのに、ユキ兄の仕事が急に入り、ぽしゃったせいだ。こんなこと、一度や二度ではない。無能な社長め、私から兄さんと過ごす時間を奪いやがって。早く優秀になって会社に入って負担を減らしてあげないと、と改めて決心をつける。心配なのが、まだ秋口なのに、最近ユキ兄が寒い寒いと言っていることだ。働かせすぎて病気にかかっていたらどうしてくれるんだ。
そんなことを考えている時、ポケットに入れている携帯電話が鳴った。兄さんからかなと思い、相手も見ずに通話ボタンを押す。

「もしもし」
「よっ、柚子! おっはよー、よく眠れた?」

 一気に気分が下がった。この構ってちゃん声は、紛れもない、匪口だ。

「朝っぱらからうるさいわね、あんたは」
「なーに不機嫌そうなオーラ出してんの。おまえ、低血糖だったっけ。それとも冷え性?」

 うざ。そう思った瞬間にはもう既に私の親指は通話切れのボタンを押していた。お馴染みの電子音が流れ、耳から離した携帯電話をポケットに仕舞おうとした瞬間。再びバイブが鳴り響いた。

「……はい」
「ひっでーなあ。何でいきなり切るんだよ」
「あのねえ」

 精一杯の怒気を込めるが、最近の自分はどうも弱い気がする。うざいと思っても、心から冷たく接することまではできなくなってしまった。ハッキングで助けてもらっている弱みだろうか。そうだ、そうに違いない。もっと努力して匪口なんて早く追い越さなくちゃ。

「私は用もなく電話されることが大嫌いなの。耳元で大声出されるのもね。分かったら声のトーンを落として。じゃないと学校にあるあんたの教科書を全部窓から投げ捨てるわよ」
「ちぇ、おっかねーの」
「で、何。二度も電話するからには、すっごく大事な用事があるんでしょうね」
「おかしいな、用があるのはそっちのはずだけど」
「はぁ?」

 電話の向こう側からも伝わってくる、ニヤニヤ笑っている雰囲気に何となく苛々する。

「あんた何言ってんの」
「いや、マジで。あ、もしかして忘れてる? 今日が何の日か」
「今日?」

 9月28日の土曜日。何にも思いつかない。

「明後日は数学のプリントの提出日かな」
「嘘! やっべ、学校に置いて来ちゃった! なあ柚子、月曜に見せてくんない?」
「却下」
「頼むよ――って、違う違う、そうじゃないよ。分かんない?」
「いいから用件を言いなさい」
「今日ね、俺の誕生日なんだ。お祝いしてよ」

 誕生日というその言葉に、一瞬息が止まった。慌てて頭の中のカレンダーと知識を照らし合わせる。そうだ、今日は9月28日!

「兄さん達の誕生日……じゃない! よかった!」
「えぇ?! いや、俺の誕生日だって言ってんじゃん!」
「だよねだよね、私が兄さん達の誕生日を忘れたり間違えたりするわけがないもんね」
「ちょっと、人の話聞いてる!?」
「え、何だっけ」
「だーかーら! 今日は俺の! 誕生日!」

 ようやく彼が電話をかけてきた理由に合点がいき、脱力してしまう。

「へえ、あ、そう。よかったね」
「うっわー何その超やる気のない声」
「まあどうでもいいっちゃどうでもいいし。それじゃ」
「それじゃ、じゃねーよ!」
「まだ何かあるの」
「もう祝ってやっただろうって空気を醸さないでくれる?」
「だってよかったねって言ってあげたじゃん」

 面倒くさいという私の心情を、匪口は察してくれるつもりはないらしい。

「それを言うことくらい、誰でもできるだろ! 違うだろ、こう、友だちはもっと違うだろ!」
「は?」
「友だちはさ、ほら、もっと前々からプレゼントを選んで自主的に祝ってサプライズを仕掛ける、くらいの意気込みがあるだろ普通」
「知らないよ、私友だちとかいなかったもん」
「いや、それ誇らしげに言う場面じゃないよ。まさかとは思うけど」

 責めるような口調が、それだけではない何かも含んでいるような気がして、微妙に気に食わない。

「柚子、おまえさ、俺にプレゼント用意してないとか、そんなんじゃないよね?」
「してるわけないじゃん」

 にべもなく言い放てば、匪口はわざとらしく大きな溜め息をついた。

「んーまぁ、予想通りっちゃ予想通りだけど。実際やられるとショックだわー」
「買いたいものがあるなら人に強請らないで買えばいいじゃない」
「そーいう問題じゃないんだよ。それに俺はおまえにプレゼントあげたじゃん」

私の誕生日をどこからか聞きつけた匪口は、多機能なマウスをプレゼントしてくれた。高かっただろうし、嬉しかったし、使い心地は気に入っているけど。

「あれはあんたが勝手に用意したんじゃん」
「ふーん。おまえは大好きな兄さんから、受けた恩は返さなくていいと言う教育を受けてんのかー。へえー」
「そんなことない! 久兄からは一発は一発で返せ、ユキ兄からは容赦するな叩き潰せむしろ俺に報告しろって教育されてるもん」
「それは違う意味での一発だろ」

兄さん達の話を持ち出されると私は弱い。2人からは主にやられたらやり返せと言われているが、特に久兄は筋は通すことを重視している。尊敬する兄さんに恥じる行動は、たしかに、たとえ匪口が相手だとしても取りたくない。それに、彼からは仕事面でも……認めたくないけど……助けられている。もっと認めたくないけど……たまに……話してると楽しいし。私はため息をついた。

「何がお望みなの?」
「やった! じゃあね俺ね、柚子の手料理食べたい」
「え」
「苦手じゃないんだろ? よく兄さん達に作ってやってるじゃん。そうだな、俺オムライスが食べたい」
「……作るだけなら」
「やったー! じゃ今からそっち行くからさ」
「いや、兄さん達の部屋もあるし」
「いいじゃんいいじゃん、今日は俺の誕生日だし」

匪口が買い物の有無や住所をさらりと聞きだすと、30分後に向かうと告げて電話を切った。流される自分に嫌気がさす。最近匪口に甘すぎじゃないか、自分。まあ、一年に一回、いや、一生に一回くらいは、筋を通して、匪口にプレゼント分はいい思いをさせてやってもいっか。私は冷蔵庫から野菜を取り出した。ユキ兄達の分がなくなりそう。あとで買い足しておかないと。
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