小説【劇団実験ピストル病院】

□ 【第二幕】感情2
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河野と生田率いる「眩しい花」の稽古が始まった。
まずは顔合わせと台本の読み合わせからである。
演出を河野に任せる。
それは今まで咲子が築き上げてきた実験ピストル病院という劇団の色を失わせる事にもなりかねない。
咲子は稽古に赴いて、なるべく河野を見守る位置にいた。
しかし、口は出さない。
咲子が口を出せば役者やスタッフは河野にではなく咲子についていってしまう。
そういったことを噛み分け、理解している咲子は、いつも遠いところから河野の演出、演技指導を見ていた。
第一幕が終わって休憩の指示が出る。
河野が浮かない表情で、稽古場の隅で台本を読んでいた咲子のところにやってきた。
「調子はどう?」
咲子は明るく笑って言う。どんより、と河野は濁った目をして「低迷です」と言った。
藤倉班は河野班より2ヶ月遅れて稽古を開始する。公演にズレを生じさせることによって競合することを防いでいる。
さらには、当日のスタッフを確保する意味もあるし、こうして二班に分けて演劇を進めていくことにより実験ピストル病院という劇団は年に4回以上の公演を実現することができる、というのが咲子の考えだ。
「咲子さんのようにうまくはいかないなぁ」
河野が咲子の隣に座って膝を抱えた。
「始めっからうまくなんていかないよ。私だって最初は、朝比奈さんの力借りっぱなしだったし、ずいぶん影で泣いたもんねー」
「…咲子さんでも泣くことあるんですね」
「…どういう意味かな、河野さん」
えへへ、と河野が笑い返して、咲子は安堵の表情を浮かべた。
河野が言うよりも咲子は暗く考えていない。
ほとんどが河野と同期といってもさしつかえないほどのキャリア。そして河野との人間関係はできあがっている。
「悪くないと思うよ。できることなら私も河野の舞台に立ちたいくらい。いい雰囲気」
咲子にそう言われて、河野は幾分か頬を緩めた。
その言葉に救われる。
「役者がベテラン揃いだからほっといても演技してくれるけど、あんたは演出家なんだからあんたが場を仕切らなきゃダメ。役者に引きずり込まれないように手綱をしっかり持たなきゃダメ。もっと台本読んで吟味して、登場人物の気持ち掴んで、それをおまえが料理しなきゃダメ」
次々と畳み掛けるようにダメ出しをされる。
しかしそれは厳しい言葉ではなく、諭すような声音だった。
「あとは…私の真似しちゃダメ。あんた独特の色が失われる。あんたは長いあいだ実ピスで演劇見てきてるんだから、あんたらしさを出せば斬新な実ピスらしさが出るよ。あんたは模倣で終わらせちゃいけない」
咲子は言って、ピースサインを出した。頑張れ、と小さく言う。
「ハイッ!」
河野も頑張ります、とピースサインを出した。
実際のところ、初めてのことだらけで河野は困惑しているだろう。
ここへくるまでに咲子の隣につき、演出補佐も制作も広報もしてきて、誰よりも舞台に携わってきている。
ファインダー越しに役者を捕らえて写真におさめることもしてきたから、いろいろなものを見て感じてきた。
それでも、演出として演劇を率いる。
それは河野にとってとてつもないプレッシャーであり、大役である。
けれど、彼女が今後オフィス・ラボで仕事をしていく中で、大きな糧になることだろう。
咲子は前々から、自分の得た何かを一つでも誰かに譲ってやろうと思っていた。
最終的に独立するのであれば、それもそれでいいと考えている。
いつか演出家になりたいと、色んな事を経験したがる河野は冗談交じりに咲子に伝えてきた。
最終的には演出やりたいなぁ、とか考えてまして。と、たどたどしい言葉でその意志を河野が伝えたとき、咲子は決めた。こいつだ。
まんざらでもない顔をして、けれどそんな大それた事は気軽に口に出すべきじゃないですよね、と彼女は笑った。
自分に憧れてそう言ってもらえるのであれば、たとえそれが社交辞令だとしても、誰でも嬉しいことである。
吾妻が提案したプロジェクトが静かに動き出したときにすでに、咲子はそこまでの青写真を作り出していた。
「藤倉班はどうなんですか?」
ライバルであり仲間である別事業部のことを河野は聞いてくる。
「んー? どうもこうも、あれだけ周りをのみ込むプロジェクトだからねぇ。毎日会議会議会議会議かいぎーッ。寺森の冷徹な声が耳ん中に残っちゃってさぁ。ノートに落書きしてたらペンで殴られましたよ」
咲子はほとんど見えない手の甲の傷を、見て見てと見せてくる。
「見えませんよ、そんな傷。寺森さんのは愛の鞭です」
「いや、憎しみがこもってたね、あれは」
咲子が笑う。彼女が床に広げていた台本にはびっしりと赤いペンで書き込みがしてあった。
演出プランなのか手直しのためのチェックなのかわからないが、それを見て河野は感嘆の息をつく。自分はまだまだそこまでの努力には達していない。
稽古中にあれだけの言葉を吐く原動力は、この努力にあるとみんな知っている。
どれだけふざけていても、咲子が許されるのはトップに立つ主宰者だということ以前に、それなりの努力を咲子が影ながらしていることを誰もが知っているからだ。
「どん感じですか? 咲子さんのことだから着々と準備できてるんでしょう? 稽古開始まで1ヶ月きりましたしね」
それが、と咲子はうんざりとして言った。
「最悪。サイアクですよー。創立以来久々に見る最悪加減だわ。人間関係で言ったら創立以来初めてかもー…」
大したことない事のように咲子はべろーんと舌を出して肩をすくめて見せた。
またまた、と河野は言おうとしてその言葉をやめた。
咲子は俯き加減に、考え込んでいる。

稽古場でのこんな咲子の顔を、河野は初めて見た気がした。
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