小説【劇団実験ピストル病院】

□【第二幕】感情1
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大晦日でも、オフィス・ラボの休みはない。

今年はいいほうですよ、と河野がダンボールを抱えて言った。
「なんせ公演終わったばっかで稽古もないですからね」
それで大掃除というわけか、と明人も雑巾片手に朝から始まった大掃除に参加している。
「恩田さん、無理しないで下さいね。まだ本調子じゃないんでしょう?」
窓口カウンターの下を拭いていた明人が、大丈夫、と笑う。
「肋骨なんてギブスしてなくても繋がるらしいし」
肩越しに振り返って言う。体をひねったときに鈍く痛みが走って、明人は顔をしかめた。
「ほらほら、痛そうですよ」
西が自分のデスクの中を整理しながら苦笑する。
終演から1ヶ月経っていないが、それでも言葉どおり激しく動いたりしない限りは日常に支障がないまでに回復はしていた。
オフィス内から稽古場、美術倉庫に至るまで、今日はキャストもスタッフも出社して掃除している。
一人だけ休んでいるわけにもいかず、明人も出てきたのだった。
そもそも、大阪から咲子と戻ってきたのが千秋楽から1週間後。明人が緊急入院したせいで、いつもより遅めに行われた打ち上げから顔を出している。
周囲にはもっぱら心配させてしまっているが、それでもオフィスに何ヶ月も通っていた自分に慣れてしまったので、出社しない自分には違和感を覚えてしまい、特に指示も出されていないのに来ていた。
吉良や桐島は稽古中もそうだったように公演が終わった次の日からもドラマや映画の撮影に行っているが、明人は劇団から与えられる仕事しかない。
灰原は公演の次の日には別の劇団に客演として参加するために稽古に行ったきり、ほとんど姿を見なかったが、時おり顔を見せには来ており、咲子と他劇団での稽古について語ったりしていた。
演技が終わってしまった灰原は明人に対して急にフレンドリーになり、あの確執はやはり敵同士という役を演じていたからなのだと納得した。
灰原の演技に対するストイックさと徹底振りは生半可なものではなかった。
周りが危惧するとおりプライドも高く、役者として頂点に立つことを志しているので言葉はきつかったものの、犬猿の仲、というほどではない。
「河野さん、今日って咲子さんと寺森さんは?」
西がファイルをデスクの上に山積みにしながら言う。
通り過ぎるスタッフたちが「無理しないでよー」と明人に声をかけていき、そのたびに明人は笑顔で答えていた。
「んー? 今日は制作会議。ノイズで」
「河野さん行かなくていいんですか?」
「なんで? 私は平社員ですからねー。一端の広報担当だから」
「え? でも…制作会議って…アレでしょ?」
「う…うん、アレ」
答えにくそうに河野が返事する。
明人は耳に届く会話を聞き流しながら掃除を続けていた。
「うーん、でも…ほら、今年はゆっくりやってくっていう方針だし。そんなに急がないんだと思う」
河野が言葉を濁しながらもまとめた。西が、今年はあと1日で終わりますけどね、と言う。
明人はひととおり拭き終わって体を起こした。胸のあたりがひきつる感じがして「あっ、いたたっ」と思わず声を出す。
「ちょっと! 大丈夫ですか? 恩田さんッ!」
西が声を上げた。
「大袈裟だよ。ごめんごめん、同じ体制でずっといたものだからさ。怪我してからじっとしてたから体なまっちまってー」
明人は苦笑した。少し演劇から離れただけで体も硬くなってしまった。
怪我をしてしばらくじっとしていたせいもある。
今は一刻も早く、演劇をしたくて仕方なかった。
まさか半年前にはこんなことを大晦日に思っているなどとは想像もできなかっただろう。
「恩田さん、ホント体は大事にしてくださいね。気持ちは嬉しいけど、やっぱり体は資本ですから」
河野が言い、そうそうと西も頷いている。
「それにもう一人の体じゃないですから」
カウンターの向こうから声がした。埃を外に出すために開け放ってあったロゴ入りの重たいガラス扉のところに吾妻が立っている。
相変わらずノーネクタイにスーツである。
「おつかれさんっすー!」
高奈の大きな声がして、奈良原がその後ろで「でけー声」と悪態をついていた。
「お疲れ様です」
寺森がいつものポーカーフェイスで3人の横をすり抜けてオフィスに入ってくる。
オフィスにいたスタッフらが口々に作業しながら「おつかれさまでーす」と返事をした。
「一人の体じゃないって…そんな妊婦みたいなこと」
明人が笑う。
「妊婦みたいなものですから」
返したのは吾妻ではなかった。彼らの後ろに、煙草をくわえた咲子がいる。
長身の男たちを押しのけるようにして前に進むと、笑い返して女は言った。

「表現は産み落とされるものですから。我々は妊婦なのよ、アキちゃん」
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