小説【劇団実験ピストル病院】

□ 【第一幕】邂逅4
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明人の初舞台まで2週間を切った。

稽古は白熱し、咲子は稽古場から帰って来るなりふらふらとデスクに突っ伏す日々だ。それこそ全ての力を稽古場で出しきり、睡眠で回復し、また次の日に稽古で使い切る、といった様子。
制作スタッフにも多忙の波は押し寄せてくる。
河野は壁にかけられた時計を見上げた。日付が変わろうとしている。
よく考えたら朝から何も食べていなかった。寺森はさっきから、誰かと電話をし続けている。なにやらトラブルが起きたようであった。後で報告があるだろう。
咲子は会議や雑誌取材、それから稽古をこなしている。
本番直前のオフィスのこの光景はいつもの事であるし、咲子のスケジュール帳が予定で詰まりに詰まる事もいつものことだった。
しかし今回は違う。いつも以上のメディアの取材を咲子は敢えてこなしている。いつもなら「陸吾を出しときゃなんとかなる」だの「梨花ちゃんで充分」だのと言ってるのに、今回はむしろ売り込んでこい、と高奈に指令が出たほどだった。
そしてその取材には、必ずと言っていいほど恩田明人を携えていた。
実際、制作発表をWEB上で行った次の日から問合せが殺到した。
期待の新人。
センセーショナルでかつ手あかのついた文字が演劇関連、エンターテイメント関連の雑誌やサイトを賑わせた。
実験ピストル病院・初診者。明人をそう名乗らせて咲子はプロモーションの場を拡げる。いつしか、藤倉咲子の秘蔵っ子、と呼ばれるようになり、明人はもう戻れないところまで来たのだと期待の圧力に押しつぶされそうになりながらも踏ん張っていた。
座付き作家の入沢卓が書いた戯曲「サイコ・フルムーン」はストレートプレイでありながらも時折歌が入ったりダンスが入ったりとエンターテイメント色の強い演劇である。
月の力によって能力を身につけて、悪しき政府に挑む革命家の青年を灰原が主演する。灰原の仲間役である吉良は、絶対的な戦闘能力を持っている男を演じた。
明人の役所は政府側と革命組織側をうろうろとし、飄々としてつかみ所がない、しかしスパイであるという役。
出番の数で言えば灰原と吉良の次にあたり、実際キーパーソンとなって最後にどんでん返しを披露する役割なので重要人物である事は間違いない。
しかし、明人にとっては全ての事がとんとん拍子に進みすぎて、たった5ヶ月という間で表舞台へと引きずり出される事を想像していなかったようだった。
慣れない生活と疾風のように追いかけてくる現実、それから稽古。
それでもまるで、シンデレラストーリーだ。
ここに至るまで、精神を追いつめるような演技をする灰原にのみ込まれそうになったり、自分の納得いく演技を出来なくて懊悩している明人を河野はよく見かけた。彼はだいたい自分の中で整理をつけたい時、稽古場に1人残るか廊下で煙草をくわえている。
そこへ誰かがやってきて、明人と話をしている事が多い。
明人にとってはこの劇団の人物達と語り合う事がストレス解消になっているのかもしれない。
仲間を失った過去を持つ男だからこそ、ここの仲間に受け入れられた事が嬉しいのだろう。
咲子は歯に衣着せぬ物言いで役者を煽った。
挑発され言葉に煽られて明人は変貌していった。
俺は世界がどっちの手にわたっても関係ない。俺は世界が滅びればいいと思っているだけだと豪語する、淡雪のようにつかみ所のない男に。
退廃さと刹那主義。
そのキャラを自分の中にアイデンティティとして確立するまでに、それこそ明人は灰原につかみかかりそうになったり、大立ち回りをして怪我をしかけたりとスタッフ達をひやりとさせたが、咲子は笑っていた。したたかに。

「立ち上がりなさい。おまえは、強い」

咲子の言葉は麻薬であり、薬であって劇薬だった。
明人は洗脳されるように変貌しては、稽古が終わるたびに憔悴しきっている。
咲子は笑っていた。
今日の通し稽古で、隣に座る演出補佐の寺森と、記録をしていた河野にだけ聞こえるように彼女は言った。
「ようやくここまで、きた」
河野は咲子の口元をちらと見た。口角をあげ、不敵に笑い、目を細めていた。

全てレールは引かれた。
あとは、ただ突っ走るだけだった。
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