小説【劇団実験ピストル病院】

□【第一幕】邂逅2
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咲子がまるで人格をいくつも持っているかのように、その声音や口調までもが相手や空間によってくるくると変わるのは、オフィス・ラボ関係者の中ではあたりまえのことだった。

仕事をしていないときはぬるいしゃべり方をして、まるでやる気がないように見えるのに、こと演劇の稽古が始まれば饒舌さと毒舌で役者を圧倒させる。時には灰皿が飛ぶこともある、というのは演劇界では有名な話。
若手が度胸をつけるために劇団実験ピストル病院に客演扱いで放り込まれてくることもある。
ギョーカイ用語で入院させる、と言われている。
と笑ったのは河野である。
「私、蹴飛ばされたことありますから。役者やったとき。毎日吐きながら泣いてましたから、トイレで」
いまでこそ笑えるけど、と河野は乾いた靴下をぷらんぷらんさせている。
「どこかにスイッチあるんじゃないですかね。咲子さんのアタマの裏側、こんど誰か覗いてくださいよ」
河野が桐島に言った。嫌よ、何されるかわかったもんじゃないもん。桐島が答えて西が笑った。
「寝てるときなら多分大丈夫ですよ」
「じゃあ西、今度キミがそれをやるように」
「嫌です。河野さんがやってください。僕がそんなことしたら、予算おりなくなっちゃう」
「また金か…おまえは〜」
「劇団の財布ですから、僕は」
どっとオフィス内が笑う。
いつしか一人二人と増えて、スタッフは各デスクに座り、デスクの必要ない役者たちはシャツにジャージというラフな格好でコーヒーを飲んだり台本片手に談笑したりと様々だ。
稽古は大体午後からはじまり、夜型の人間たちの集まりであるオフィス内は昼をすぎると人でにぎわいだす。
そこへ応接室前で座り込んでたはずの咲子がふらりとオフィスに入ってきた。
「今日何時から稽古だっけ?」
きた、と全員が姿勢を正した。
桐島は読んでいた雑誌をたたみ、河野は靴下を履く。
寺森と西だけは手を休めずパソコンのキーを叩き続けていた。
その声音が、仕事と演劇と会社を統べる者の声だった。
スイッチが切り替わった。
誰もがそれを知っている。
手馴れた様子で寺森がファイルを渡す。すべての稽古スケジュールを出力してファイリングしてあるあたりが、真面目でまめな寺森の仕事ぶりを見せつけていた。
「予算報告あげて、西」
「はい」
「スチールの選定、河野」
「今からやります」
「うん、明日までね。寺森、朝比奈さんは?」
「明日稽古見学だそうです」
「わかった。高奈は?」
聞いておいて、そういえば雨が降り出す前に営業に行ってくると出て行ったことを思い出したようだ。咲子は一人でうなづいて、机の上においてある書類を拾い上げた。次回作の企画書である。これを持ってスポンサー巡りをするのである。
「チェックしとけって言われてたなー。やらなきゃ」
咲子は独り言ちて、通称役員室と呼ばれている奥のパーテーションで仕切られた自分の机へと放り投げた。桐島がキャッチしてデスクの上に置く。
「梨花ちゃん、仕事は?」
「あしたー。N局で、ドラマ」
桐島が答えた。桐島のことだけ下の名前で呼んでいるのは、咲子いわく「まだそんなに仲良くないから」だそうだ。
殴り合いの喧嘩したのによく言うわよ、と桐島はいつも笑う。
咲子のそれが冗談だということもみんな知っている。
咲子は役者を下の名前で呼ぶのだ。なぜかそう決まっていて、それの理由を誰も知らない。河野が役者をしていたときは「琴音」と呼んでいた。スタッフになったその日から河野は「河野」と呼ばれている。
会社と演劇をフル回転へと導くエンジンの役割を担う咲子のルールには不思議だ。
そういう面白さがないといけない、と咲子はよく言う。
仕事仕事って思うより、好きなことやってて面白くてやりがいある、って感じることが大事。お金も信頼関係も、いろんなことが巡ってるからしんどいこともあるけど、仲間って大切、面白いこともあったな、って年をとったときに語れる歴史を作りたい。
それがたとえちよっとのくだらないことでも、後になれば面白いものだよ。
咲子のその言葉を誰もが覚えている。
その考え方には、時々しか姿を現さない代表取締役社長も異論を唱えない。
玄人にはママゴトと言われるかもしれない仕事でも、プロのママゴトなら文句はなかろうと、咲子は実働の全てを任せられている。
そもそも傾きかけていた会社をひとつ立て直している業績を持つのだから、社長は黙って見届けることを決め込んでいた。
「奈良原、照明プラン」
「いま死ぬ気でやってます。…間に合わせますッ! すいません」
「謝る前にやれ」
「ハイッ!」
照明担当の奈良原は、パソコンにかじりついて目を血走らせている。昨日からやっていた照明プランがスタッフ会議で白紙に戻り、徹夜で定刻に間に合わせようと必死だ。
もう一度締め切りをやぶると、何度も言わせるな、と鬼の叱咤が飛ぶことは安易に想像できた。
「ミカミくんは?」
オフィス内を見渡すと、そこにはミカミの姿はない。
三上謙介は二番目に古いメンバーの一人で舞台美術と舞台監督を担っている。一度舞台上で事故を起こし、激昂した咲子と衝突してラボを抜けたが戻ってきたので「ツワモノ」とスタッフらには呼ばれている。
咲子と大喧嘩をして残っているのは多いが、一度抜けた者が戻ってくることは少ない。咲子が見切るからだ。それでも三上をラボに戻したのは、彼の才能と実績と、なにより根性だと咲子はよく言う。
食らいついてもついてくるのなら、その情熱を私は買う。
大金を出してもいい。と。
「倉庫です。美術スタッフ会議」
寺森がパソコンのエンターキーを押して答えた。
「了解」
「陸吾は?」
「もうすぐ帰ってきますよ。今日クランクアップです。映画の」
寺森が微笑んで返した。
こうでないと、と誰もが期待をこめた目をしている。
咲子を中心に回りだす、この感覚は誰もが好きだ。
「3時から稽古。スタジオA集合。遅れるな」
咲子の一声に、オフィス内の人間が全員、ハイと小気味よく返事を返した。
「咲子さーん、吾妻は?」
「あいつは…」
河野に咲子は微笑みかけて、
「大事なお仕事」
と答えた。河野は苦笑いを俯いて隠した。

この人は、確信犯なんだ。
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