小説 【至高ルーチン】
□直島「ベネッセアートサイト直島」
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「ごめんね、寺森。気にしてたんでしょ、私のこと」
「え…?」
一瞬、何のことに対しての謝罪なのかわからず、立ち尽くしていた俺に、
咲子さんは「こないだの公演のことよ」と苦笑して煙を吐き出した。
「ええ、まぁ」
「私もまだまだってことよねぇー。こんなことで腐ってる場合じゃないって、わかってんだけどねぇ」
自嘲気味に笑った声が、
波間ににじんでいく。
「なにが悔しかったって、実は稽古の途中でわかってたってことが悔しかったのよ。これじゃ観客は満足しない。けれど、時間との戦いの中で妥協してしまった…それが、悔しくて」
芝居に妥協を許さないと語る藤倉咲子が語る、本音だった。
「私、つらいことがあると、ここに来たくなるの」
「高校生の時に1度来たと、社長がおっしゃってましたけど…」
「それは原点。史希さんの知らないところで、時間みつけては来島して…もう5回目くらいかな」
「そんなに…」
「うん、けど、この島はいつも表情が違う。それって、私のその時の感情が違うせい。それでもって…四季の移り変わりと、自然のせい」
今は生い茂る緑が、冬になれば枯れて散って。
その時、この島はどんな色を見せるのだろう。
空と海は、どんな色を奏でるのだろう。
俺は咲子さんの言っていることが、わかった。
癒す島でありながら、刺激する島だ。
穏やかさと凶暴さが同居しているような。
いい意味で裏切られ続けるような。
緑と自然と海と共存する芸術は、
島民と共存している。
排他の声も反対の声もあっただろうに、
今ではこの島はそれを暖かく受け入れているようで、
決して他人事のようにとらえていないような気がして。
咲子さんが辛いときに、
それを俺を含めて劇団員には吐き出せないときに、
煙草の煙を吐き出す自然さで吐き出してしまえる島なのだ。
「いつも走っているけど、時にはこういう時間も大事だって、教えてくれるから、好き」
「そうですね、咲子さん」
現実も時間も、
忘れさせてくれるような。
非日常でありながらも、
昔から当然のようにしてそこにあるような、
芸術作品たち。
それは咲子さんが目指している芝居に通じているのかもしれない。
「航海薄明」
咲子さんは、白んだ空を眺めて呟いた。
「海と空の境目がわかりはじめる日の出前を、そう言うんだって。船乗りが星を使って船の位置を確かめられる暗さだからよ」
うまく言ったもんだ、と咲子さんの目は、漁船らしい船を見つめていた。
まだ一等星は瞬いている。
「誰から聞いたんですか? それ」
「誰って…こんな光技術用語しってるのは、うちには一人しかいないじゃない」
「あー…奈良原ですか」
「光バカよ。音バカもいるけどね」
自転車を赤く塗装された音バカ、と咲子さんは笑った。
「いつもは近くに居すぎて、時には距離を保ちたいと思うことだってあるけど、ここに来てこうして一人で居ると、ああ、なんでここにあの子たちはいないんだろう、って思うから不思議よね」
「そうですね」
「この島の美しや、芸術作品や、この感動を、今みんなと分かち合いたいと、思うことも沢山あるもの」
咲子さんは煙を大きく吐き出すと、
海を眺めていた黒い瞳をそっと俺に向けた。
そして、「きみもね」と微笑む。
「好んで一人で来るくせに、ここに寺森がいればいいのに、この景色を見せてやりたいって、いつも思うのよ」
嬉しいことを言ってくれる。
俺は思わず、笑っていた。
そうやって必要とされること。
必要だと感じること。
とても有り難い。
この人の為に、生きているのだと思えることが、
些細なことだとしていもそれがとても幸せだと、
日常では当たり前すぎて見落としてしまうから。