小説【劇団実験ピストル病院】

□【第二幕】感情1
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応接室にいる自分が不思議だった。

半年前には想像もできなかった世界が、ここには広がっている。
髪から水を滴らせ、濡れ鼠みたいに震えていた自分が半年後には演劇雑誌に載り、辛口で有名な批評家に賛辞を受けた。
それ以上のことを望んでいるわけはなかった。
けれど、いま応接机の上に広げられる企画書には、望んでいた以上のものが乗せられている。
吾妻、高奈の間に座り、咲子は続け様に煙草に火をつけた。
明人の隣には奈良原が足を組んで座っている。
「あなたをデビューさせる。シンガーとして」
正確にはボーカリストです、と吾妻が言った。
明人は状況を掴み取れなくて絶句している。
机の上には黒で「ハムレット(仮)」と印字されており、明人はその文字を何度もなぞるようにして見た。
「歌手がミュージカルや演劇に出演するというのはよくある話です。ぼくたちが目指すのは舞台から音楽の世界へ。それがあなたです」
吾妻はいつもように笑っていたが、口調は強烈な誘い文句を吐くときと同じ口調で言った。
「舞台はどうしてもテレビなどのメディアと違って大衆に認知されにくい。けれど、ぼくたちと恩田さん、それからラボと親会社のノイズ、全て全精力を賭けてあなたを、舞台との連動企画でプロモーション活動を行って歌手として本格的にデビューさせる、というプロジェクトです」
吾妻の言葉に、明人は目の前の男の瞳を見た。
提案がある、といった半年前の咲子の瞳の色をしていた。
恐れをなさない、確固たる意志のある瞳。妥協を許さない、黒い瞳だった。
奈良原も高奈も同じ顔つきで、咲子だけが微笑んだまま煙草をふかしている。
今稽古中の演劇が終演したら、新プロジェクトを起動させる。それに、参加してほしいの。アキちゃん抜きではなりたたない。あなたは要になるの。
稽古から3ヶ月目の応接室で、明かされた咲子の言葉を明人は思い出す。
新プロジェクト。
吉良もそんなことを言っていた。
初めて稽古場に入ったとき、吾妻が言葉を濁した、あの言葉。
何かが繋がっていく気がした。
「ぼくたちは、この企画を半年かけてかためてきました。必要な地盤固めも、ほとんどできている状態だと踏んで、上からのゴーサインを待っていたんです。けれど、これはぼくたちがやりたいことであって、恩田さんが拒否をした場合、つぶれる企画でもあります」
「吾妻、恩田さんを追い詰める言い方するなよ」
奈良原が苦い顔をする。
吾妻の言葉は甘い毒のようで、それでいて逃げ道を作らない。
「企画をポシャらせるってのは極論っすけど、でも恩田さんしか適役がいないし、恩田さんを吾妻が見つけたから出た企画でもあるんっすよ。だから、恩田さんがイエスと言わなければ企画そのものは意味を成さない。そういう意味っす」
高奈が軽快なテンポで言う。咲子は俯き加減に煙草をふかしているままで何も言わない。
明人はいま明かされた全てに感情が立ち往生していた。
全ては半年前から動き出していたのだ。
恩田明人一人のために。
メイルでボーカルとしてがむしゃらに歌い続けていた、あの頃から。
「咲子」
明人は思わず彼女の名前を呼んだ。
吾妻と初めてオフィス・ラボで会ったとき、彼女は「だれもおまえがさわいでたボーカリストとアキちゃんが同一人物だなんて知るかよ」と吾妻に悪態をついた。
けれど彼女は劇団に入る提案をしたときになんと言った?
――あなた、メイルっていうバントでボーカルしてたでしょう?
切り出してきた言葉はそれだった。
あの時、驚愕続きに感じなかった違和感。
それがここにきて全て鮮明に思い出される。
運命を変えたあの一言。
「咲子、おまえ、何もかもわかってて…?」
明人は女の瞳を捕らえようと、じっとその横顔を見た。
ようやく、咲子は顔を上げて、煙を長く長く吐き出した。
「轢いたのは、ホントに偶然」
咲子は笑った。色んな感情の混じる表情をしていた。
「けれど、早い段階でラボに連れてこようと考えていたのは、事実。アキちゃんが私が今なにをしているのか知らない頃から、私はあなたのことを考えていたわ。ずっと、ずっと考えていた。この子達含めてラボは、あなたのためにプロジェクトを始動させることを考えていたのよ」
「何も…知らなかった」
「まずはあなたに演劇界で話題になってもらうこと、それが先だった。それから、周囲の信頼関係を得ること。あなたが努力を知ること。あなたの迷いを捨てること。まずはそれが先だったのよ」
咲子は笑った。
働かないかと提案した、あのときと同じ色を宿した瞳をまっすぐに向けて。
射られるような鋭さと、揺るがない絶対的な意思を持って。
それはまた、周りに座る若い男たちも同じであった。
「答えは来年に持ち越しましょう。ゆっくり考えてくれていい」
咲子は明人の手元に企画書を差し出した。読んでこいということらしい。
女は煙草を深く吸い込むと、さて、と立ち上がった。
「仕事の話はここまで。今日は仕事納めですから。しょーがつはー?」
急に間の抜けた声になると見下ろす角度で座る面々を見渡す。
「飲む日ッ!」
高奈もいつもの調子で大声だ。
「正月は寝る日!」
吾妻が立ち上がり、よろしくお願いしますね、と明人を見て微笑む。
「正月っていったら遊ぶ日でしょ」
咲子が大口をあけて笑う。すっかりとオフモードで浮かれ気分だ。
いつも遊ぶ日、のくせに、と奈良原が悪態をついて咲子に睨みを効かせられた。
「さて、若者たちよ。仕事納めの前に大掃除ね。がんばりたまえ」
咲子が応接室の扉を開けて3人を外へと促す。吾妻だけが掃除したくないよー、とぼやきながら、高奈と奈良原はさっさと席を立って出て行った。
「血気盛んな若者たちでゴメンね。でも、やっと私の持っている札は全部見せることができたわ」
咲子は立ったまま腰を折って灰皿に煙草を押し付けて消した。
白く長細い煙が天井に向かってたなびく。
「アキちゃんはラボにとって、私にとって必要な人間なの。もうラボはあなたのためになら心中も覚悟。恩田明人はそれだけの影響力を持つ人間になったのよ。ちょっとくらい、うぬぼれてもいい。うぬぼれによる怠惰は許さないけど、努力で勝ち得たうぬぼれならいくらでも受け止める」
女の瞳は再び、仕事への向かう意志を持った色に戻っていた。

明人はその場で、こらえきれない涙をこぼした。
終演後に泣きたかった感情が、ここへきてあふれ出した。
咲子が母親のような顔をして見ている。
にじむ視界の中、それを感じたがもうそれもどうでも良かった。
喜びや高揚では片付けられない感情が逆巻いて、呑み込まれていく。
喧騒と静寂が同居する年の瀬独特の空気の中、ただただ明人は泣きじゃくるしかなかった。
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