流星の女神

□0
2ページ/3ページ

 奏が森崎家を後にして程なく。雨が降り始める前に無事に自宅へ着いた奏。
 リビングへ向かうと寝そべってテレビを見る父親の姿があった。その周りには空っぽになった酒の瓶や缶が散らばっている。奏が帰宅したことに気が付いていないようだ。奏は気付かれないように深い溜め息を吐いた。そして、震えそうな身体を落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸をする。酒の強い匂いにむせそうになるのを堪えて声を振り絞った。

「――ただいま」

 奏は、緊張しながらも無機質に言った。
 すると、父親はゆっくりと振り向き、何かを発しながら手を振り上げた――。


――ぽつり。

 一粒の雨が奏の頬を濡らした。反射的に見上げる。陽はすっかり沈み、墨を撒いたように濁った雲が空一面を覆っていた。今にも泣き出しそうな空模様だと、道路に(たたず)む奏はぼんやりと思った。

「――あたしと同じだね」

 誰に向けるでもなく呟いた。ぽつぽつと雨が降り始める。数分もしないうちに雨脚は強くなった。雨水(あまみず)が傷口にじわりと染みる。その痛みが自分を平常へと戻していった。
 父親は日によって気分が異なる。機嫌が良いときは無害だが、機嫌が悪いときは手に負えない。感情や言動も様々で、暴力を振るうことも少なくはない。
 今日は相当悪かったらしい――。自分に気付いたとたん、父親は急にビール瓶を持って襲い掛かって来た。とっさに腕でガードしたので腕に怪我を負ってしまった。身の危険を感じた為、無我夢中で抵抗しようと自分の持っていたバッグを父親へ勢いよく投げ付けると、その拍子に落ちた携帯を拾って逃げるように家を飛び出して来たのだ。あっという間の出来事だった。バッグを投げただけでは大したダメージを与えられていないだろうけど、自分でも大胆なことをしたなと奏は思った。反撃なんて、今までした事あっただろうか。

「はあ……」

 本日何度目か分からない溜め息を吐く。今日は家に帰るんじゃなかった。まさかあんなにも荒れているなんて。父親に言われた言葉がぐるぐると頭を巡る。いや、返って良かったのかもしれない。これで父親に対する未練など無いと言うことが証明出来たではないか。中学を卒業したら家を出よう――。奏は密かに決意した。

 ふと、手に持っていたスマートフォンがぴかぴかと光っているのに気がついた。相手は何となく分かっていた。そこで奏は、伽奈芽へ連絡するのを忘れていたことに気が付いたのだった。
 スマートフォンの画面は少しだけ割れていた。バッグを投げて携帯が床に落ちた時に出来てしまったのだろう。雨に濡れて歪んだ液晶画面を見ると――着信だ。思った通り、伽奈芽からだった。森崎家を出てから30分以上は経過していた。父親のことで一杯一杯になり、全然連絡をしていなかった。随分心配を掛けてしまったなと思いながら、通話ボタンを押した。

「もしもし――」

「もしもしっ! 奏!?」

 電話に出るや否や、伽奈芽の取り乱した声が響く。

「うん、連絡入れなくて、ごめんね」

「もう……っ。何回も電話したんだよ、すっごく心配したんだから!」

 今にも泣き出しそうな伽奈芽の声からは、それ程までに自分を案じていた様子が分かる。彼女の声に奏は安堵すると、張り詰めていた糸が切れるように涙が込み上げてきた。

「――ごめんね、ごめん」

 家を飛び出してからずっと(こら)えていた。言葉にならない感情と共に、瞳から涙が溢れる。
 一度流れてしまった涙は中々止まってくれなかった。伝えたいことがたくさんあるのに、泣いているせいで言葉に詰まってしまい、うまく話せない。奏は今すぐに伽奈芽に会いたいと思った。ただ側に居たい、居てほしいと思ったのだ。

「今から、伽奈芽の家に行っても良い?」

 この質問に意味を成すのかは分からない。伽奈芽からの返答は十中八九『Yes』であると思ったからだ。形として聞いたようなものだった。

「…………」

 ところが、聞こえて来たのは予想を反した音声だった。返答は無く、その代わりに、ざーっというノイズだけが聞こえて来たのだ。それから数秒経つと、伽奈芽の声が僅かに聞こえて来た。

「い……は、……こ……い……の?」

「えっ? ごめん、良く聞こえない」

「今……こ」

「ごめん、ノイズが酷くて。今?」

「……に……の」

「もしもし? もしもーし!」

 伽奈芽の声が完全に聞こえなくなってしまった。突然のことに唖然となる。涙もすっかり止まってしまった。
 スマートフォンを見ると画面は真っ黒で、電源が落ちていた。ひびの入った画面から雨の水が入り込んで、壊れてしまったのかもしれない。けれど奏は、携帯電話が壊れたことよりも、伽奈芽との連絡が途絶えてしまったことの方がショックだった。通話が終わっただけで、こんなにも寂しくなるのかと思った。
 降りしきる雨に打たれる奏は既に全身が濡れていた。身体や衣服が濡れるのは慣れてしまえばどうって事なかった。しかし、水が浸入した靴だけは歩くたびにぐにょぐにょとする感触がどうも気持ち悪く、不快であった。

 これからどうしよう。そう思った時に、真っ先に思い浮かぶのはやはり伽奈芽や伽奈芽の両親のことだった。自分の家に帰る気は無いので、奏は取り敢えず本日2回目の森崎家へ向かうことを決めた。
 家に着いたら皆どんな顔をするだろう。全身濡れている状態で急に訪問して迷惑じゃないだろうか。――ううん、大丈夫。今までだって優しく迎え入れてくれたし、森崎家族が嫌な顔をするとは思えない。そもそも邪険にされたことなんて1度も無いじゃないか。不安な気持ちを打ち消すように自分を納得させる。それでも、少しだけ心配になった。

 雨のなか1人ぽつぽつと歩く奏。辺りは静まり返っている。まるでこの世に自分1人だけが取り残されたような、そんな気分になる。物悲しさを感じた奏は、早く会いたいという気持ちがどんどん膨らんでゆく。そう思うと足取りは自然と速くなった。


次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ