【プロローグ】 「あなたのことが、好き…でした」 いつも気丈なほど凛とした目許が苦痛にゆがんで、痛々しいほどに掠れた声が最後の言葉を発する。 深夜の薄暗い裏路地。 月のかすかな光だけが、彼女の笑顔を照らしていた。 仕事を完了させたところは年下といえどプロだったといったところだろうか。 そのとき負った致命傷を、彼女は自分が未熟だったからだと語った。 それが経験のことだったのか技術のことだったのか、それとももっと別のことだったのか、真意はもうわからない。 治療すれば間に合っただなんて、そんな気休めは無意味だった。 僕が彼女を見たときにはすでに瀕死の状態で。 言い残したことがあるのなら聞いてやろうと、そう思ったのも気まぐれだったんだ。 そうして聞いた“最後の言葉”は恨み言でも未練でもなんでもなくて。 いつもの彼女のまま、純粋ともいえる表情で穏やかに。 好き、だなんて。 僕は彼女と特別親しかったわけじゃない。 言葉を交わしたことだってないと言いきれる。 ただ、いつも几帳面に結わっている長い三つ編の黒髪が綺麗だと、一度だけそう口にした。 ただ、それだけだったのに。 兄は泣いた。 随分と可愛がっていた弟子だったようだからわからなくはない。 普段ほとんど表情を崩さない兄のあんな姿は見たことがなくて戸惑ったけれど、翌日には何事もなかったかのような顔して笑っていた。 悔しいけれど兄は僕よりもずっとプロで、あの涙と共に彼女への哀情もすべて絶ちきったんだろう。 何もなかったことにしたのかもしれない。 僕は泣かなかった。 そもそも泣くなんて行為を随分としていない。 彼女の死に対しても、そんなに心を揺さぶられることなどなかった。 兄のようにすべてを洗い流してしまえればよかったのかもしれない。 だからだろうか。 彼女の死にぎわの笑顔がいつまでも脳裏に焼きついてはなれないのは。 最後の言葉を忘れられずにいるのも。 どこかすっきりしない、喉の内側がもやもやするような感覚のまま数日が過ぎた。 そんなある日。 兄がとんでもない拾い物をする。 ソレは穏やかな顔をして眠っていた。 寝息もほとんど聞こえない。 僕達の本当にプライベートな住居のリビングのソファーにソレはいた。 僕達は仕事柄、どんな大物の依頼であろうとこちらの居場所を知らせることなどありえない。 そもそもテリトリー内に他者を入れるということは、気を休める場所においてストレスを感じることになる。 こんな素人のような行いを兄がするとは思えなかった。 「なんなの?ソレ」 寝室から出てきて眼にした光景にそんな言葉しかでない。 キッチンから淹れたてのコーヒーを持ってきた兄はいつもと変わらない笑顔で答えた。 「護衛の依頼をひきうけまして」 「護衛!?」 僕達の能力は他人を守ることに向かない。 元々そういった訓練をつんできていないのだ。 他者を排除し自分の身の安全以外は考えないように。 それが護衛だなんて。 「どういう風のふきまわし?」 「どうということはないんですよ。ただ、依頼主が美女だったので」 底の読めない顔で笑いながら呆れるような理由。 兄が女性に対して特別な感情をもつことなどいままで一度もない。 今回がはじめてのそれだっただなんて思えなかった。 「ふざけないで」 「…ふざけていませんよ。本当に綺麗な人だったんです。黒髪の」 その言葉に、笑みをうかべた綺麗な長い黒髪の少女を思い出す。 兄が唯一大切にしていた女と言えるかもしれない。 その依頼主を、彼女と重ねたとでもいうのか。 この、なにものにも動じない兄が。 「すぐにこちらの美少年に化けてしまわれたんですけど」 おっとりと首を傾げながらコーヒーを僕に手渡してくる。 この苦い飲み物は好きじゃない。 手で押しかえしながら、説明しろと眼で訴えると苦笑した。 「商店街であったんですけど、そのときは本当に美少女だったんです。これで変装してたらしくて」 そう言って兄が手にとったのはソファー近くにおいてあった空色の布。 テーブルにコーヒーカップを置くとそれを広げてみせる。 「…ドレス?」 「ええ。ロリータファッションって言うんですよね?」 「そんなこと知らないよ」 とにかくその布は白や黒のフリルがふんだんに使われたワンピースだった。 そして長いウエーブの黒髪。 「くろ…かみ?」 もしやと思うけど。 「ウイッグって言うらしいです」 にこにこと笑う兄の胸倉を無言で掴む。 「その依頼主がソレってこと?」 僕の確認に、悪びれもせず兄は頷いた。 「はい」 こうして僕達は出逢った '10/1/31 <<戻(しゃくなげ) |