「多串くん、多串くん」
「土方だ!…何だよ」
「アレ、あそこ何て書いてあんの?」
「……X」
「アレがXぅ?ったくもっと分かり易く書けってんだセンコーの奴」

俺の席の隣でブチブチ文句を言いながらノートを写す銀髪の男、坂田銀時。
本当ならば卒業まで絶対に関わることなく過ごすはずだった奴。
というか、絶対に馬が合わないと思っていたから関わりたくなかった奴。
そんな坂田という男の問いに俺が素直に答えているのには、ある理由がある。
俺は今、あの時の自分を心底呪いたい気分だった。



坂田と土方は、クラスの席が隣だというだけで特に関わりはなかった。
土方の坂田に対する認識も、『銀髪でやる気のなさそうな胡散臭い眼鏡を掛けた奴』ぐらいでしかなかった。
しかし、特に話すこともなく過ごして高校二年の半分を終えた頃、事件は起こった。
いつものように授業を終えて、土方は隣のクラスで昔からの馴染みである沖田と学食を食べる約束をしていたので早々に教科書を片付けていた。
隣では坂田が机に突っ伏して睡眠を貪っている。
学校には来るが授業となるといつも決まって坂田は寝る。
それなのに成績は悪くない(良くもないが)。
土方はどちらかといえば努力して良い点数を取る人間だったから、授業中を寝て過ごしているのにそこそこ点数が取れる坂田を少し憎たらしく思っていた。
今日も今日とて起きる気配のない坂田を一瞥して、土方は教室を出ようと一歩を踏み出した。
この一歩が、後の土方の後悔の原因になる。

「…ん?」

パキン、と何かを踏んだ音がして、土方は足を止める。
ゴミか何かかと視線を下に落として確認した瞬間、土方はピシリと固まった。
上履きに包まれた足をそろりと上げてみれば、あったのは予想していた通り坂田の眼鏡。
しかしその形は見慣れたものと違い酷く変形していた。
つまり、坂田の眼鏡を踏んでしまったのだ。

「…マジかよ」

呆然と呟いて、土方は内心で頭を抱えた。
壊した、完全に壊してしまった。
しかもよりによって坂田の眼鏡を。
あまり関わりたくないと思っている人間とどうしてトラブルを起こしてしまうのか。

「んー……」
「ッ……」

逃げるべきか謝るべきか、あまり宜しくない選択を思案し始めた土方の横で、眠りが浅くなったのか坂田が身じろぐ。
大袈裟なくらい肩を跳ねさせた土方はそっと様子を窺う。
ここでモタモタせずに逃げていれば難は逃れられたのかもしれないが、元来真面目な性格上、土方は坂田がのそりと顔を上げるまで動けなかった。

「…………………」
「…………えーと、多串くんだっけ?」
「土方だ。………」
「あぁ、そうそう。……どしたの固まっちゃって」

会話の端々に気まずい沈黙を挟みながらも、坂田が眠そうな目を擦り聞いてきた。
なんと答えたらいいものか分からず、土方は唇の端を引き攣らせて曖昧な笑みを浮かべるしかできない。

「いや、その、………悪ィ」
「?何が…って、俺の眼鏡じゃねーかっ!」

上手い言い訳も見付からず、土方はとうとう観念して無惨にもひしゃげた眼鏡を拾い上げて坂田に手渡した。
このときばかりは坂田の瞳も見開かれ、それが非難の色に染まることを予想した土方は死の宣告を待つ罪人の心境でため息を吐く。
きっと弁償しろとか言われるに違いない。
せっかく寝る暇を削って稼いだなけなしのバイト代がパーだ。
自分の不注意を呪う土方だったが、呆然とした様子で眼鏡を眺めていた坂田から思いもよらない言葉が掛けられた。

「…あーこりゃ修理出さなきゃダメだな。ま、俺もしまってなかったのが悪ィし、いーよ別に」
「え、いいのか!?」

だって高いだろう眼鏡って。
そんなサクッといいなんて言えるもんじゃないだろう。

「んー、そン代わりさァ」

土方が滅多に見せない驚きの表情をしていると、その代わりと言いながら坂田が身を乗り出してにんまりと口の吊り上げて。

「眼鏡直るまでお世話してよ。土方くんが」
「……はァ!?」

誰の世話、なんて聞かなくても分かる。
にやにやとした笑みをやめない坂田に馬鹿にするなと言いたくなったが、自分にその権利はないと思い留まる。

「そうさなァ、直るまで一週間くらい。頼むぜ」
「…っ、それなら金払ったほうがマシだ!」

土方の睨みも叫びも、坂田は無言の笑みで一蹴し、去り際に土方の肩を軽く叩いて教室を出ていった。
残ったのは、壊れた眼鏡を持ってこれから訪れるであろう屈辱の日々を思い震える土方。
この日を境に、坂田と土方の奇妙な関係が始まったのである。




その時を思い出して土方は盛大に溜息を吐いた。
今日で三日目、坂田の我が道を行く行動に土方は振り回されっぱなしだった。
さっきのように黒板に書いてある文字を教えろなんていうのはまだ可愛いもので、アソコにいるのは誰かだの、掲示してあるプリントが見えないだの、思わず自分で確認してこいと蹴り飛ばしたくなるようなことまで土方に聞いてくる。
一度我慢しきれなくなって思い切り睨んだことがあったが、坂田はへらりと笑って「土方が見たほうが早いじゃん」と当然のように言い放った。
それ以来、いちいち癇癪を起こすのも面倒になった土方は渋々ではあるが坂田の日常生活をサポートしている。

「なァ」
「っ、んだよ耳元で喋んな」

不意に坂田の声が耳元で聴こえて、土方の回想は打ち切られる。
驚きに息を詰めながらも隣を見れば、「あとどんくらい?」と欠伸混じりに坂田が問う。

「…あと五分」
「ん。…そーだ、今日昼メシ一緒に食わねェ?」
「は、…なんでお前と」

またからかっているのかと訝しげな視線を送るが、どうやらそういうわけではないようで。
眠たそうな瞳に他意がないことは悟ることが出来たが、それが逆に土方を困惑させた。

「いや、土方くんとは気が合いそうだなと思ってよ」

寧ろ合わないと思うんだが。
ニヤニヤしながら言う坂田に内心でそうツッコみながらも、屋上行こうぜ、と立ち上がる坂田にもはや諦めの境地でついていった。



「ん。」

晴れ渡る空が清々しく、若干強い陽射しに目を細めていると坂田が何かを差し出してきた。
それを目にして、土方は固まる。

「な…んだよ、コレ」
「何って、煙草。吸うだろお前」
「……なんで、」

知ってるんだ。
そう言いそうになって慌てて言葉を呑み込んだが、坂田は全て知っているようでそれは無駄に終わる。

「悪いコトしてるもん同士、分かるんだよ。微妙に匂いも残ってっしな」
「昼メシ誘った理由はコレか」
「まーな。真面目で優等生な土方クンが煙草吸ってるなんて、俺の眼鏡事件が無かったら分かんなかったことだし?なんでお前みたいな奴が校則違反してんのかキョーミ持ったから」

箱から慣れた手つきで煙草を抜き出し口に加えると、もう一度土方の前に差し出してくる。
土方は暫しの沈黙のあと、諦めたように短く息を吐いて自分の懐を探った。
バレてしまったのなら仕方ない。
所属する部活に迷惑を掛けたくなくて今まで誰にも言わずこっそりと吸い続けてきたが、どうせこの男も共犯、教師に告げ口をすることはないだろう。
愛用の煙草を取り出した土方に、坂田は「俺のは吸う気ないってか。ツレねー奴」と苦笑いを零したが、別段気を悪くした様子もなく腕を下ろす。
そしてあまり頑丈そうではないフェンスに寄り掛かり座り込むと、ライター(自分と同じ百円ライターだった)で火を点けた。

「火ィぐらいは貰ってくれてもいいんじゃねェ?」
「……………」

その言葉が先刻の煙草を受け取らなかったことを言っているのだとは容易に想像できて、そういえば自分のはオイルが尽きかけていたのを思い出し今度は坂田の言葉に甘えることにした。
同意の言葉の代わりに煙草を加えて顔を近付けると、坂田は満足そうに笑って片手を翳したライターを差し出してきた。
坂田に習い自分もフェンスに寄り掛かって、もうすっかり身体に染み込んだ有毒な煙を目一杯に吸い込む。
学校にいる間は吸えないから、なおさら美味く感じた。

「…そーとー吸ってんねお前」
「あ?何を根拠に言ってやがる」
「すげェ様になってる」

隣でくつくつと笑われ眉間に皺を寄せる。
この男は人間を観察する能力に長けているのか。はたまたあてずっぽうなのか。
いずれにしろ土方にとって面白くないことは確かで、黙々と吸い続ける。

「なァ、聞いてい?」

暫く沈黙が流れていたと思ったら、既に煙草を携帯灰皿に収めあんパン(男のくせによくこんな甘ったるいモンが食えるなと思った)を頬張る坂田がやる気のない目を向けてきた。

「質問によるな」
「なんで、俺と一緒にいんの」
「………は?」

聞き間違いかと思った。
なんで一緒にいるか、だと?
そんなの、

「テメーが眼鏡弁償する代わりに身の回りの世話しろって言ったんじゃねェか!」

あんまりな質問だった。
自分から言い出したくせに今さら何を言っているのだこの男は。

「いや、まぁそうなんだけどよ」

バリバリと天然パーマを掻きむしりながら歯切れの悪い言い方をする坂田に苛立ちは募る一方で。
もう出て行こうと思いかけたとき、隣に座る坂田が真っ直ぐにこちらを見て言った。

「ホントに嫌なら無理矢理にでも俺に金握らせてチャラにすりゃ良かったじゃねェか。俺は半分冗談で言ったつもりだったんだよ。なのにお前、あんま見えなかったけど物凄ェ嫌な顔したけどそうしなかった」
「な………」
「なんで?」

視力が悪いからか、坂田は土方の表情を探ろうとジッと視線を注いでいる。
その虚ろな目ながらも逸らしてくれない真っ直ぐな瞳に居心地が悪くなって、土方は自分から目を逸らす。
どうして、なんて、そんなの決まってる。
坂田がそうしろと言ったからだ。
だが、よくよく考えてみれば坂田が言ったことも一理ある。
元来土方は人にああしろこうしろと指図されるのが嫌いだし、代わりに金を払ったとしても坂田が損をすることはない。
考えてみれば、そうだった。
ならば何故自分は、坂田の条件を呑んだのだろう。
気まぐれか、興味本位か、はたまた気の迷いか。

「(待て、気の迷いってなんだ)」

思考がおかしな方向に転がりそうな気がして、土方は慌てて頭を振る。

「多串くん?」

何も言わない土方に坂田の怪訝そうな声が掛かる。
その声に現実に引き戻された土方は、未だ纏まらない頭で咄嗟に言葉を紡いだ。

「一人だったから」
「……へ?」

土方の答えに坂田は今まで半分だった瞳を大きく見開く。
だが坂田以上に、土方は内心で動揺していた。
一人だったから?同情して一緒にいるというのか。
そもそも自分が坂田にこんな感情を抱いていたことでさえ気付いていなかった。

「いや、違う、そうじゃなくて、」

でも、可哀相だとか、哀れんだとか、そういうんじゃない。
それだけは確かで弁解するように意味のない言葉を並べる。
だって自分は坂田を気に食わない奴だと思っていて、なるべく関わらないように過ごしてきたはずだ。
可哀相だなんて思ったことは一度もない。むしろ誰ともツルまず一匹狼のように過ごすこの男にカッコつけるなとさえ思っていた。
なのに何故。

「(………あ。)」

そこまで考えて、土方の頭の中で更なる疑問が生まれた。
それは今までの疑問を払拭するような、衝撃的なもので。

「…ちょっと待て。整理するから」
「お、おぅ…」

土方の常にない動揺ぶりに坂田は思わずといった返事を返してきた。
取り敢えず追求されなかっことに安堵して、しかし内心では思いきり頭を抱える。
気付いてしまったのだ。激しく認めたくはないがはっきりと。

気に食わないとか、関わらないようにしようとか、そう思っている時点で坂田のことを気にかけていたのだということに。

無関心な人間にならそう思うことさえ無かったはずだ。
つまり自分は、坂田に何らかの思いを抱いていたということになる。

「(一人だったから…)」

さっき自分が無意識に口走った言葉。
そうだ、坂田はいつも一人だった。
毎日のように遅れて来ては、携帯を弄るか寝るかのどちらかしかしない。
周囲を見るその目は眼鏡越しに見ているせいか感情が読み取りにくい。
だからだろうか、自分が坂田の要求を呑んだのは。
その目が、その瞳が、眼鏡を取ったらどんな感情を見せるのか知りたかった。
だから自分は…、

「(って、こんなこと言えるか!)」

自分の思考がかなりおかしな方向に向いていることに顔が熱くなるのを感じて、土方は口元を手で覆うことで隠そうとした。
だがそんなものは、隣にいる坂田に通用するはずもなく。

「どしたのお前」
「っ…なんでもねェ」

心底驚いたといったような声で問われれば余計に羞恥を煽られる。
自分でも理解できない感情を坂田に伝えることなど不可能で、なんとか話題を変えようと土方は仏頂面を装って口を開いた。

「…お前こそ、なんでいつも遅刻してくんだ」
「あれ、話逸らしたよこの子」
「っうるせぇ俺だってよく分かんねーんだよ察しろバカ!」
「逆ギレはんたーい。…ま、いいや。俺が遅刻してくる理由だっけ?バイトしてんだよ、学校終わってから夜中まで」
「バイト…?」

意外な言葉だった。
てっきり夜中まで遊び惚けているのだとばかり思っていたから。

「親に捨てられてから自給自足の生活。一応お登勢のババア…理事長が顔見知りだから遅刻は目瞑ってもらってんだ」

へらりと何でもないような顔をして坂田が言う。
この坂田の言葉で全てに納得がいったような気がした。
人と関わらないようにしているところも、冷たくはないがどこか諦めているような瞳も、ここが原点なのだろう。
あまり触れてはいけないところに踏み込んでしまったかもしれない。
しかし、土方に不思議と同情は湧かなかった。
むしろじわじわと心を支配したのは静かな怒りで。

「…気に入らねェ」
「え、やっぱ遅刻ダメ?」
「ちげェよ。何にビビってんだか知らねぇが自分から壁作ってんじゃねェ。あの眼鏡はテメェの死んで濁った目を少しでも晴らすためにあんだろうが。レンズを遮断機代わりにしてどうする」

焦燥にも似た感情が土方の口を動かす。
自分でも何を言わんとしているのか解らなかったが、妙に大人びていた坂田の表情が驚きに満ちて年相応の顔をしたことに何故か満足して。
あぁ、自分はこんな顔をさせたかったのかと唐突に理解して、土方の口元が自然と緩んだ。

「眼鏡が無くて丁度よかったじゃねェか。自分の目ン玉で世の中見てみろよ」



この日から、土方と坂田の関係は劇的に変わったのだった。












――To be continued.

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