鰤二次文(長編)

□◇ 花、ひとひら
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その日の戌吊は一日中快晴で、それが夜まで続く事に疑いの余地はなかった。

今日は丁度ひと月前に満開となった枝垂桜が一晩で散ってしまうと噂される満月の当日。
夕刻にはまだ間がある刻限に、一間だけの小さな家屋の中に薄い戸板を静かに敲く音が響く。

「緋真、居るか?私だ。」
白哉が声を掛け終わらないうちに戸が引かれた。
「白哉様、お待ちしておりました!」
満面の笑みで出迎える緋真を目の当たりにしながら白哉は溜め息混じりに注意する。
「・・・何度も言うようだが、お前には警戒心が足りない。今ここに立っているのが悪しき者だったらどうする。もっと用心するべきだ。」
そう眉を顰める白哉に、緋真は上目遣いで言い訳を試みた。
「はい、承知しております。でも、戸を敲く音で白哉様だと分かりましたもの。」
緋真の仕草とその科白に白哉の鼓動が跳ね上がる。
もちろん表情(かお)には出さない。

だが、そんな事で白哉の心配が払拭される訳ではない。
二人それぞれが考えている『危険』には隔たりがある。
白哉が危惧する事態を緋真に説明するには白哉の身分を明かさなければならない。
緋真の白哉に対する態度から、白哉が高位の貴族だと云うことは初めて出会った時から知られていたようだ。が、四大貴族である朽木家の長だとは想像さえしていないだろう。
ここまできて、白哉にはまだそれを話す覚悟が出来ていない。
その身分は緋真を白哉から遠ざける ――― 白哉を気遣うが故に。
緋真自身が身を引くだろう事が容易に想像出来る。
それは白哉が現在最も恐れている事に違いない。

「・・・とにかく、十分な注意を怠るな。」
「はい、分かりました。」
そう笑顔で返された白哉は苦言をそこで終わらせた。
これまでも緋真はこの戌吊で暮らしてきたのだ。治安故の危険ならば今更白哉が心配する必要など無い。
それ以上の事は白哉自身が配慮してやるしかないのだ。

既に出掛ける用意をしていた緋真は手に小さな風呂敷包みを提げて外へ出ると戸を閉めた。
「いいお天気になって良かったですね、白哉様。月も桜もきっときれいに見えますよ。」
「そうだな。」

緋真に悟られぬよう周囲の気配を探ると、白哉は断りを入れる。
「緋真、済まぬが暫く我慢してくれるか?」
何を、と緋真が訊ねる前に、白哉が緋真を軽々と抱き抱えると二人の姿はその場から消えた。


「着いたぞ、緋真?」
白哉が緋真に静かに声を掛けた。
緋真はそっと目を開けると、まず自分が死覇装の襟を握り締めていた事に気付く。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて手を離しながら顔を真っ赤にして謝った。
途中、緋真は目を瞑って無意識に死覇装の胸元にしがみ付いていたらしい。不安があった訳ではないが、白哉が庇っているにも拘わらず身体に受ける風圧から感じる未体験の速さに気持ちが付いていけなかった。
ひと月前も同じように連れられたのだが、その時は緋真の為に相当速さを抑えていた事が窺えた。

「怖い思いをさせて済まなかった。少し急ぎたかったのだ。」
辺境の地と云えども、死神と同行している所を見られる可能性を減らしておくに越したことは無い。瞬歩での移動なら途中で住人が居たとしてもその目に触れる心配はなかった。
白哉は敢えて理由は濁し、緋真には気遣いの言葉だけを掛けた。

「いいえ・・・大丈夫です。ありがとうございました、白哉様。」
一方の緋真は、白哉が自分の不作法には触れず、別段気分を害した様子も無いので取り敢えず安心する。

人心地着いた緋真の目の前で満開の枝垂桜が咲き誇っていた。
自分を抱いた白哉はこの短時間で途方もない距離を駆け抜けてきたらしい。流魂街の住人(じぶん)とは違うと十分認識してはいたものの、緋真は死神の能力(ちから)を改めて見せ付けられた気がした。

地面にそっと下ろされた緋真は再び古木を見上げ小さく嘆息する。
「本当にあれからずっと咲き続けていたのですね・・・不思議な桜・・・。」

白哉は木の周りをそれとなく窺ってみたが、巨大な老木を霞ませる程の無数の花が咲いているにも拘わらず、花弁一枚地面に落ちていない。信じ難い事に、このひと月の間全く散っていないのだ。
その状況を異常だと思わないではなかったが、周囲には不穏な動きも怪しい霊圧も皆無だった。
それ故、仮に何か状況の変化が起ころうとも緋真を守る自信がある白哉は殊更気にする事はなかった。

 
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