鰤二次文(リク)

□☆ブルー・ヴァイオレット
1ページ/3ページ

「お帰りなさいませ、緋真様」

遥か道の向こうから近付く姿を認める前から直立して待っていた門番は緋真の到着と同時にそう出迎えた。
朽木家当主である夫・白哉の名代として他家を訪問していた緋真。随行した幾人かの従者の一人が緋真の帰邸を先触れしていたのだ。
緋真が門に差し掛かる直前には、同行していた侍女頭が一足先に門を入った。
明るい青空の下、門番の前で足を止めた緋真は「ただ今戻りました」と軽く会釈をしてから朽木家の大門をくぐった。
先に邸に入って侍女達に指示をした侍女頭は緋真が玄関前に着く頃には外に出ており、深々と頭を下げて緋真を迎えた。


「緋真様、お庭の藤棚へお出ましになっては如何でしょう。今が丁度見頃だと庭師が申しておりましたよ」

着替えを手伝いながら侍女頭は緋真に勧めた。

 * * *

四大貴族に挙げられる朽木家には他家からの訪問や招待が絶えない。現在、護廷十三隊・六番隊隊長に就いている白哉が邸内に居る事は稀である為、その対応は侍従長の清家が采配している。
貴族社会の頂点に位置する朽木家 ――― 特に白哉の代になってからは格下の家の相手をする事は殆ど無く、角が立たない形で丁重に断るのが常だ。
だが、微妙な地位の家柄の場合、緋真が応対する事もあった。
ここ二日間はそんな来客が多く、清家は緋真の体調を案じて幾つかを断る予定でいたのだが、「折角お越し頂いたのですから一言ご挨拶を…」と、結局夜まで息を吐く暇も無い状態だった。その上での今日の他家への訪問 ――― 見かねた清家はとうとう出仕前の白哉に進言したのだが…白哉は意外にも「緋真の好きにさせろ」とだけ告げて普段通り邸を出ていった。
同じ頃、侍女頭も緋真の実妹であるルキアから緋真に訪問外出を思い止まるよう口添えを頼んだのだが、姉の決めた事を自分が止める訳にはいかない、と申し訳無さそうに頭を下げられた。
普段は緋真を気遣い過ぎる程の二人がこの件に関しては何故か緋真の意志を尊重した。

 * * *

無事に邸へ戻り、侍女頭はとにかく緋真を休ませようと遠回しに提案したのだ。

「すっかり忘れていたわ…これから見に行っても構わないかしら」
「はい。この後のご予定は何もございませんからどうぞご安心を」

侍女頭はそう後押しし、緋真が素直に庭に出ると漸く安堵の溜め息を吐いた。


庭を通り邸内を流れる川に沿って春深い風情を楽しみながら歩く緋真。
何処からか甘い薫りが漂ってくる。
当主の私室前を過ぎ、更に奥まった先には薄紫に煙る景色が緋真を待っていた。
藤棚が川を跨いで大きく設えられ、そこから無数の花房が川面に届かんばかりに垂れている。

「満開ね…」

近付き、目の前の房の一つに手を伸ばした。
緋真の立つ足元には藤棚の中に向かって低い垣根が伸びて小路になっている。長く垂れる藤も路の上だけは短めに整えられており、誘われるままに緋真は藤棚の小路へと入って行った。
花の迷路を進む緋真。だが、周囲を包む花の香は意外な事に噎せ返る程の濃密さでは無い。ここに植えられている品種が薫りを極力抑えたものにされているのには理由があった。
小路に従って歩いていると、やがて川の縁と小さな橋が現れた。その橋の先は川面の上に造られた床板に続く。紫色の藤に囲まれた、白い木肌の美しさが映える四阿(あずまや)に緋真は迎えられた。
花の薫りが抑えられているのは、長時間のここでの滞在を妨げない為の配慮なのだ。

四阿の中央には同じ白木材の卓が据えられ、それを白木の長椅子がコの字に囲んでいる。
椅子の端に座った緋真は卓上を撫でた。
磨き上げられた無垢の天板が緋真の指を心地好く滑らせる。
腰掛けている長椅子は木製であるにも拘わらず柔らかな座り心地で緋真を包み込む。
卓上には茶が用意され、中央には花籠が置かれていた。

「私、そんなに無理をしているように見えていたのね…ごめんなさい、皆さんに心配を掛けて」

温かいお茶を押し戴いて飲むとじんわりと身体が癒されるように感じて疲れが消えていく。
湯呑みを戻し、花籠を引き寄せた。

「きれいな紫色…カーネーションかしら?こんな色があったのね…」

花びらを指先で撫でながら周囲に目を遣る。
四阿を覆い隠す長い藤の花房から洩れ射す陽射しと柔らかな甘い薫り。

緋真は目を閉じた。

微かに聴こえる川のせせらぎと藤の花が風に揺れる音が交じり合って春を奏でる。

静かな空間に身を置いている内にその音は緋真の耳から徐々に遠ざかっていった…


暫く経った頃、四阿には緋真を愛おしげに見つめる灰色の瞳があった。
卓にうつ伏せた緋真の気持ち良さそうな寝顔は起こす事を躊躇わせ、白哉は侍女頭から託された袿をそっと緋真に掛けるとその場を静かに立ち去った。
 
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ