第一期(558〜559)

□仙女の名を持つ少女
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「蘭香、蘭香――ッ!!」

 少女の肩を、茅鴛は強く掴んだ。
 蘭香は八切れるほどに目を見開く。荒い息は、目の前の幼馴染みを認めて、緩くなる。

「ち、茅鴛……」

 蘭香は茅鴛にしがみつく。嗚咽が、肩の震えとともに漏れる。

「大丈夫……もう大丈夫だよ……」

 蘭香は夢の後味の恐ろしさに、涙が滝のように溢れて止まらない。

「恐い…恐いよ、茅鴛……ッ。夢のなかにまであの男が……っ」

 蘭香は怯える。
 夢であって、夢ではない。これは、この身に起きた現実、消し去ってしまいたい過去。あの日の記憶。
 ひとりの男の恣意が、蘭香の魂をずたずたに引き裂く。
 泣きじゃくる蘭香の背を、茅鴛はゆっくり撫でた。
 蘭香のただならぬ様子に、彼女の廻りで眠っていた仲間が身を起こす。

「蘭香、夢を見たのかい?」

 少女は顔を上げる。心細そうに揺れていた瞳が、安堵に彩られていく。

「菻静(りんせい)姉さん……」

 菻静は茅鴛の姉である。勝ち気そうな目が、心配そうに細まる。

「ごめんなさい、起こしちゃって……。心配が、お腹の赤ちゃんに響いちゃうわね。」

 菻静は現在妊娠している。彼女はおおらかな笑みを浮かべた。
 茅鴛の姉は心身ともに頑丈だ。が、妊娠中の身体に馬車はきついのではないかと、蘭香は案じた。
 彼等の旅は、逃避行の道行である。追手に追いつかれないように、適度に馬を飛ばす必要があった。
 砂利道を走る振動が、菻静と腹の子に負担を与えないか、蘭香は憂慮していた。

「大丈夫大丈夫、気にする必要ないよ」

 菻静は蘭香の肩をぽんぽん、と軽く叩く。
 茅鴛は姉に蘭香を任せ、馭者に戻る。再度、馬車が揺れ、がらがらと車輪の回る音がしだした。

「馬車のなかで揺れるから、恐い夢見たんじゃない?」

 菻静は妹のような少女の眼を覗き込んだ。蘭香は先程より安定した眼差しを返す。

「だめよね、あたし、弱いよね。あのことがあってから三月は経ったのに。もう、忘れていいのに、頭から離れていかないみたい。昼間は忘れているつもりなんだけれど、夜になると、出てくるの……」

 蘭香は微笑み、嫋々と呟く。
 菻静は彼女を痛ましく見る。
 もともとは、蘭香は利発で明るく、いるものを和ませるような少女だった。が、あのことがあってからは、どこかが狂ってしまったのか、心からの笑みを見せなくなった。今も、口許は笑みを作っているが、眼は笑っていない。
 それだけ、蘭香の身に起こったことは、彼女にとって衝撃が激しかったということだ。
 菻静は蘭香を労わった。
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