木蓮の涙
□第三話
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冬の澄み切った宵闇を、綺羅と輝く幾多の星が飾っていく。柔らかな風が、馬上の高澄の頬に触れた。
すでに、夜半を超え、あたりは静謐とした空間に支配されている。路を通う人の姿もまばらである。第の近くまで来て、高澄は軽く吐息した。
彼の妻、公主・瑠璃はいつも彼が帰ってくるまで寝ずに起きている。彼女自身は、起きていたいから起きているだけらしいからそれでいいのだが、彼女に付き従っている乳母・橦瑳(しゅさ)は、瑠璃が高澄を待っている言い張る。何事も、橦瑳にとっては瑠璃が中心なのだ。たとえ、高澄が橦瑳の主人・瑠璃の夫であったとしても、関係がないらしい。
今宵も機嫌が悪いであろう橦瑳のことを考えると、高澄は頭が痛い。
ふと、彼は第を囲む漆喰の壁の向こうにある蝋梅の花枝を見る。彼の第の内に植えられている、梅とよく似た黄色の花弁をもつ花である。
花の明るさが蒼黒に溶け込み、燭を灯したような趣を醸す。幽冥を和ませる。
「ほう……夜の闇のなかにあると、花もまた趣きが違うものだな」
馬の手綱を引いていた従者が、なにか? と顔をあげる。丁度よいと、高澄は従者に言い付けた。
「第のうちに入ったら、あの蝋梅の枝を切ってまいれ」
高澄が蝋梅の花枝を手に第に入ると、案の定、すこぶる虫の居所が悪い橦瑳がいた。傲然とした面持ちのまま、彼を迎える。
「これはこれは、遅いお帰りで、今宵はどちらの女人の肌に休まれたのでございましょう?」
にっこりと造り笑顔で、橦瑳は言う。面倒くさそうに、高澄は橦瑳に蝋梅の枝を渡す。
「これを瓶に挿して、姫の部屋に運んでくれ」
それだけ言うと、年若い侍女に外套を手渡す。
「お待ち下さい! はぐらかそうとしても、そうはいきませぬ!」
橦瑳は引き下がらない。が、高澄も聞く気などもともとない。乳母の引き止める声も構わず、奥堂に歩を進めた。
彼の寝室では、すでに寝衣に着替えた瑠璃が待っていた。茶褐色の髪を下ろし、侍女に髪をすかさせている。鏡に映った夫の姿に、振り返った。瑠璃の飴色の瞳が、無心に高澄を見つめる。
「ただ今、帰りました」
公主である瑠璃に、丁重に言葉をかける。瑠璃は立ち上がった。
「今宵も、長いことお仕事がありましたのかえ?」
「はい、少し、手こずらされました」
「ま。陛下には、もう少し考えていただかねば。殿がくたびれてしまう」
「そんなことはございません」
他人行儀な言葉を、ふたりは重ねる。
実は、今まで仕事だったというのは大嘘で、本当はいつものとおり、妓楼で女と戯れていたのである。
まったく、瑠璃は高澄の嘘に気付いていない。可憐な微笑みと、無邪気な瞳で夫を見ている。
高澄は、瑠璃のこういう眼に弱かったりする。しばらくすると、自分から視線を外してしまう。