あの瞬間、この身体を駆け巡った感情の名を、一体何と呼ぶのか


抱きしめた躯のぬくもり


いまはもう、思い出せないけれど―――…










【かげろうの詩−うた−】









あの頃、世界を創り出していたのは白と黒と赤だけで。
地鳴りと轟音と咆哮が重たい雲に覆われた空の下、絶えることなく鳴り響くそこは戦場(いくさば)。
血生臭いやり取りに、日々数え切れない程の命が散ってゆく。
閃光る鈍色。舞うは深紅の華。
骨と肉を断つ感触。耳を劈く断末魔の叫び。
目の前に転がる、『イキモノ』だったもの。
機械的に鋼を振るう。
それらひとつひとつが身体の奥深くに刻まれていくのにはもう慣れた。
涙なんて美しい呼び名のものは流れない。枯れ果てたか、或いは初めから持ち合わせていなかったのか。
まともな思考など、とうの昔何処かに堕としてきた。
だから、あの頃の俺は何処かの何かが欠けていたのだろう。
ただ、痛い程の耳鳴りだけが、煩わしい―――…










何日も何日も走り続けた足が悲鳴をあげている。草木を掻き分け、転がり込んだ廃寺で雨音を聴く。
更に重みを増し、冷たく突き刺さる雨の糸を垂らす空。曇天は何処までも追いかけてくる。
忘れさせはしないと、嘲笑うかの、ような。

(臆病者、)

振るい堕としてきた荷の喪失感に、詰めていた息を吐き出した。
途端、この身を襲ったのは、脱力感と安心感と、僅かばかりの何か(寂廖?そんなものは知らない)。
だけど、未だ身体を支配する戦場の匂いに何もかもが持っていかれそうで。



(それは、燃えさかる炎に引き寄せられる、あの、儚い夏の虫のように、総てを灼き尽くされる感覚)



遠くで雷鳴が聞こえる。直に此方へと近づいて来るだろう。
瞼を降ろして訪れる闇に身を委ねた。むわりと漂う夏の気配。大きくなる耳鳴りと、雨音と―――


「――誰だ、」


凛、と鳴る、声。
と同時に疾走った稲妻。
一拍遅れて響く雷鳴。
閉じた瞼を勢いよく開け素早く声の方向へ目を遣る。すれば、入口に立つひとつの人影。逆光で顔は分からないが、鼓膜を震わせた声は若い男のそれだ。
その右手に握られているのはただの木刀。敵意はある。が、殺意は感じられない。どうやら敵方の者ではないようだ。
身体は動かさず、じっと男を睨め付ける。男は此方の様子を伺っている。

「…そ、こに居んのは、誰だ」

応えない俺に焦れたか、再び問う男。隠しきれない、この空間を埋め尽くす俺の殺気の中で、大した奴だと口の端を吊り上げる。
だから、それ以上近寄ってきてもらっては困るのだ。

(来るな)

身体にまとわりつく火薬の匂いと返り血の匂いに興奮は治まらない。冷たい鋼の感触が蘇る。だが。


ざり、と。砂粒の擦れる音が、


「―――ッ!」

足を踏み出そうと、床板についた右腕に力を籠めた。
途端、全身を貫く激痛。崩れかけた身体をすんでのところで支えた。

「お前、怪我して…」
「……!!」

此方に足を踏み出した男に向かって飛びかかり、胸ぐらを掴んで床板に叩きつけ馬乗りになる。

「痛っ…」

体格は俺と同じ程か。油断したのか、案外容易に倒れ痛みに喘いだその男の顔を覗き込んだ。


刹那、空を割る稲妻。突き抜ける雷鳴。

蒼白い閃光に照らし出されたのは、



(心を見透かすような眼差し)

(古びた床板に散らばる、黒い、絹糸)



息を、のんだ。


―――…耳鳴りが痛い。雨音が五月蝿い。






(そんなものに心奪われるなんて、嗚呼、今更すぎて嗤えてくる)






ざあざあと止むことを知らない雨が勢いを増したような気がする。
灯りひとつない廃寺の中、あの双眸はすでに暗闇に紛れてしまった。だがその視線は確かに感じる。俺の眼を見ている。
胸ぐらを掴む手は一寸たりとも動かない(いや、或いは、)。
鉄臭い匂いに頭の芯がくらりと揺らめく中、ふと、男の動く気配がぴん、と張りつめた重たい空気を、ゆっくりと震わせる。
瞬きひとつせず気配の行方を追えば、それは俺の右腕を沿った後に肩でぴたりと止まった。

「…痛むんだろう」
「っ……!」

何処か艷を感じさせる声が鼓膜を震わせ、冷たい指先が肩に触れる。と、突き刺すような痛みと、灼けるような熱が走った。
指先が添えられた場所を見遣れば、白い羽織が着物共々切り裂かれ、夜目にも分かる程に赤黒い液体が流れ落ちていた。
先の戦闘で斬られたのか、興奮状態の俺は全く気付かなかったが。
傷口はそれほど深くはない。利腕をやられるとはなんてザマだと、歪んだ笑みを浮かべる。



(大丈夫、)

総て、だ。

(総て、斬った)



冷たい指先が離れて。
するりと、輪郭を、撫ぜて。
互いにそれから一言も口を開かず、静かな空間を激しい雨音が繋ぐ。
その音と共に鳴り響く空。
だが確かに聞こえる筈のそれらは、だんだん大きくなる耳鳴りにかき消されて聞こえない。
ゆっくりと速まる心臓が痛い。駄目だ。こんなもの、気にしてはいけない。駄目だ。
繰り返し自分に言い聞かせるが、身体は意思を裏切って更に鼓動を速めていく。
ドクン、ドクン、と。嫌な、音。
胸の奥深くに埋もれた何かがしきりに叫び声をあげている。
それに耳を傾けてはいけないと本能が告げていた。
着物を掴んでいる両の手が小さく震えて、それを誤魔化すために唇を強く噛み締め、向けられる視線をはねつけるように男の眼を覗き込んだ、ら。
闇に順応した眼が、捕えた、



(そこにあったのは、ただただ純粋な、優しささえも滲んだ眩しい程の双眸)






ふつり、と。

脆い何かがいとも簡単に切れて。






名も知らぬ感情が爪先から指先、つむじまでを一瞬で駆け巡った。






「っ、ぅあ!?」

驚愕に染まった男の声が右の耳すぐ横であがった。頭の中で鳴り響いていた警鐘は霧散し、襟元を掴んでいた手はいつの間にか男の躯を掻き抱いていた。
蒸し暑い。雨と汗に濡れた互いの躯。
沸き上がる感情に身を任せて腕に力を籠めれば、存外細いその躯がキシリと悲鳴をあげた。男の息を詰める気配が伝わる。
だがそんなことを気にとめるわけもなく、俺はただ男を抱きしめていた。

「お、い、離せテメェ…苦しっ…」
「……」

汗に混じった、おそらく男の匂いだろうものが鼻をくすぐる。首筋に顔を埋めて脳を麻痺させるようなそれを追う。
すれば男の肩がびくりと大きく跳ね上がり、仄かに熱が上昇した気がした。
俺から逃れようともがく男は、けれども俺の身体で押さえつけているせいかまともに抵抗できないようで。

「ち、くしょ…!」
「―――っ!?」

男が小さく悪態を吐いたと同時、ぴりっと肩の裂傷近くに痛みを感じた。
僅かに顔を上げると、肩に伸ばされた腕が映りこんだ。
なんとか伸ばした男の指が、縋りつくように俺の肩に爪をたてていた。
瞬間、じんわりと胸にこみ上げた、得体の知れない何か。
心臓が締めつけられる感覚は僅かに切なさを帯びて。


(この感情を、一体何と呼ぶのか)


随分昔に感じたような、けれども何処か違うような。それが何時のことだったかなんて覚えていないけれど。
深い水の底に揺らめくそれは、泡(あぶく)と共に、強張った俺の身体から力を削ぎ落としていく。
男を包む腕はそのままに、ゆるりと瞼が重さを増して。

「おい―――?」

完全に下ろした瞼。その向こうで男の声が遠く染み込んで。
遠慮がちに俺の背中に回された腕のぬくもりを最後に、意識は深く深く、底の見えない闇へと堕ちていく。
雨音と、雷鳴が遠い―――…
















気づいた時には、暗い森の中を疾走していた。
鬱蒼とした木々に足を取られ何度も転倒しかけるが、前を見据えて無理矢理身体を持ち上げる。
葉の隙間から覗く空は相変わらず鉛色で、けれども雨は降っていない。
あれからどうしたのか、何故こんな森の中を走っているのか、今の状態を説明できる言葉を俺はひとつも持っていなかった。
後ろを振り返ってもそこに広がるのは木、木、木。廃寺の姿など、すでに何処にも見当たらない。
風を切るこの身体が纏うのは相変わらず血と戦場の匂い。
手に残っているのは、冷たい鋼の感触。
艷のある声も、流れるような黒の髪も、総てを射抜く眼差しも―――激しい程の、あの、感情も。
昨夜のことは、あたかも幻だったかのように、姿を消した。
戦場が、血が、俺を呼ぶ。だが、総てを棄てた俺にとって、もう彼処は俺の居場所ではない。



(あの瞬間、この身体を駆け巡った感情の名を、一体何と呼ぶのか)


抱きしめた躯のぬくもり。
いまはもう、思い出せないけれど。



それは確かに、俺の心に、小さな棘を、刺した。






(儚く色褪せる棘が傷口を震わす)(それが何時かなんて、知らない)



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