短編1

□君を想ふ
1ページ/1ページ



きらきらと。陽光が閉じた瞼の裏で舞い踊る。
肌を撫でる風は柔らかく温かい。ふわふわと漂う感覚を覚える。
僅かに上昇しかけた意識が、まだ足りないとでも言うようにその感覚を求めまどろむ。
手足を動かし、しっくりくる場所に落ち着く。それに安堵し一息吐いた、刹那。

「ん……」

微かに鼻をかすめた甘い香りに、銀八の意識はゆっくりと浮上していった。
重たい瞼をうっすら持ち上げ2、3度瞬かせる。すれば、ぼやけた視界が次第に輪郭を取り戻し、それと同時に眩しい白が飛び込んできた。
一瞬自分の状態が分からず、目を凝らして目の前の白の正体を探れば、果たして、組んだ自分の腕だということに気がつく。
どうやら机に突っ伏して眠っていたらしい。ゆっくりと上体を起こせば固まった筋肉がギシリと軋んだ。
開いた窓にレースのカーテンがふわり。
心地よい風が木々を揺らす音と、遠くに聞こえる沢山の笑い声が銀八の鼓膜を震わせる。
立ち上がって窓から外を見下ろすと、あちこちで胸に赤い花を挿した生徒たちが、今日で最後だと写真を撮りあったり話こんでいたりと忙しそうにしていた。目を眇めてその姿を眺める。
そう、最後、だ。
個性派揃い(そんな生易しい言葉では到底収まらないが)のクラスで一人一人の名前を呼ぶことも、ストーカーやら何やら、毎日起きていた問題を適当に片付けることも―――あの、自分を射抜くような視線を向けられることも、もう、ない。
羽織っている白衣のポケットからソフトケースを取り出し、煙草を一本咥えて火を灯す。細く吐き出した煙が霞を作り、3月に入ったばかりの青く晴れた空へと溶けた。
ふと、銀八の鼻にまた微かな甘い匂いが香った。
視線をさ迷わせれば、国語準備室の目の前に生える桜の木に、小さなピンク色の花弁が風に揺れていた。
大半がまだ蕾のまま、その中でひと足先に花を広げたそれ。これから来る季節の兆しに、銀八の口が緩く弧を描いた。
あの花が満開になる頃には、ここを巣立った子供たちは新しい世界を歩き始めている。今日流した涙や生まれた笑顔は彼らの思い出となる。おそらく自分のことも、その思い出の中に埋もれていく。それでいい。

『せんせい、』

彼らの人生の通過点で出会った自分が、何時までも彼らの中に残り続ける必要はない。

『先生、俺は―――』



(そんなこと、必要ない)



―――コン、コン

控えめに扉を叩く音。それに振り返ることなく銀八は返事をする。すれば、ガラガラと扉が開く音と、

「失礼します」

凛、とした声が準備室に響いた後、扉が閉まった。
扉を叩いた人物が近づいてくる気配。けれども視線は桜に注がれたまま、ただ紫煙をくゆらせている。
足音はゆっくりと距離を縮めやがて止まった。そして、ふぅ、と煙を吐いた銀八の背中に声をかける。

「…何してるんですか、こんな所で」
「ん〜?目覚めの一服をちょっとね」
「寝てたのかよ…みんな探してますよ。行かなくていいんですか」
「いやいや、こういう日は若ぇモンだけで別れを惜しんでりゃいんだよ。第2ボタンの争奪戦繰り広げたり、川で白線流ししたりすりゃいーの」
「発想が古いです先生」
「古くねェ先生はまだピチピチの20代後半だコノヤロー。ンなことよりこんな所にいていいの多串クン?ゴリラが探してるみてーだけど」

ホラ、と外を指差し、そこで初めて銀八は土方へと振り向いた。指先の向こうでは「おーい、トシィー!?」と叫びながら辺りを見回す近藤と、「ウホウホ鳴き声がうるさいでさァ近藤さん」と言い放つ沖田の姿があった。
チラリと目を遣ったが、土方はすぐに視線を銀八に戻す。

「クラス全員で飯食いに行こうって」
「なるほどな。いいねぇ、行ってこい行ってこい。今のうちにしっかり遊んどけよー。どうせそのうち遊びたくても遊べなくなっちまうんだからな。先生みたいに」
「忙しい先生なんて想像できません」
「どーいう意味だコラ」
「そういう意味です。…先生は、行かないんですか」
「だぁから忙しいっつってんだろ。それにンなもん、オメーらと一緒に行ったら奢らされんの目に見えてんだよ」
「たまにはいいじゃないですか。俺たちへの餞別っつーことで」
「お前教師の給料ナメんなよ?クラス全員分なんて払えるわけねーだろ。ただでさえ食い盛りの野郎が多いのに、加えて神楽がいんだぞ?俺の貯金全部なくなって破綻するわ。俺が人生の卒業式を迎えちまうわ」

卒業、という言葉に土方の眉が微かに寄る。窓から吹き込む風に揺れる、学ランの赤い花。
証書が入った黒い筒を握る右手に力が入るのが見えたが、それらには触れず、銀八は土方の目を見つめ返した。
真っ直ぐ此方に向いた目は鋭く、変わらねぇなァと胸の中で呟く。
出席確認の時も、授業で教壇に立つ時も、廊下ですれ違う時も。何時だってこの灰がちな瞳は自分を見つめていた。

「ホレ、さっさと行かねーとアイツ保健所…いや動物園か?まァどっちでもいいけどよ、いい加減通報され」
「――先生」

何時だって、逸らされることなく自分を追っていた。知っていた。ずっと。



(気づかないふりをするのは、ひどく簡単)



「先生」
『せんせい、』

まだむし暑さの残る頃。
誰もいない何時かの放課後の教室。
揺れるカーテン。差し込む夕陽。

「俺、やっぱり―――」
『先生、俺は』

グラウンドから聞こえる生徒の声。
やけに響く、言葉。



(知らなくていい感情は知らないままで)

(そうやって言い聞かせるのは誰の、)



「土方」

窓枠に両肘をついてもたれかかり、息を吐く。吐き出された煙の向こうで土方が泣きそうに顔を歪めていた。
それを見据えたまま、眉ひとつ動かさず銀八は口を開く。

「言っただろ、」

何時かと同じ声と同じ言葉で。
するりと紡がれるそれは何の感情も孕まない。

『お前は―――』

「………」

見つめた瞳が揺れる。
風が明るい笑い声と共に準備室へと吹き込み空間を埋めて。きらり、レースカーテンが光を反射し。
紫煙の霞が細く、細く、消える。
消えて、い、く。
桜の残り香だけが漂って―――



「なんで、ですか」

ぽつり零した言葉は震えていない。それは必死で掻き集めた土方の矜持。
それでも白くなっていたその右手に、銀八は目を眇めた。

「あの時も…結局何ひとつ言わせてくれなかった」
「………」
「俺はまだ、先生に、何も伝えてねェ」
「………」
「っ俺は、先生のことが…!」
「お前は俺の生徒だ」

みなまで言わせず言葉を吐く。短くなった煙草を机上の灰皿に押し付ければ、ジュッと小さく音をたてて火が消えた。
泣きそうだった顔がさらに歪む。ともすれば零れそうなのだろう涙を堪えようと、土方が唇を噛み締め銀八を見つめる。苦しくて、息が詰まりそうだとでも言うように。
土方から視線を外し、銀八は自分の足下に目を落とした。ギリギリ視界に入る土方の足は此方を向いたまま。
緩く口角を吊り上げ、自嘲じみた笑みを浮かべた。



彼の人生の通過点で出会った自分が、何時までも彼の中に残り続ける必要はない。

(そんなこと、必要ない)(望んではいけない)



何時だって、その目は逸らされることなく自分を追っていた。知っていた。ずっと。

(気づかないふりをするのは、ひどく簡単)(けれど探していたのは何時だって自分の方)



知らなくていい感情は知らないままで。
そうやって言い聞かせるのは誰の、



(逃げ道を用意する言い訳は一体誰のため?)(そんなこと、今更確かめる意味もない)






嗚呼、本当に、ずるい大人だ。
傷つきたくないだけの臆病な自分。

だけど。



「お前はまだ、俺の生徒だ」

もう一度はっきり呟けば、土方がぐっと唇を噛み締めうつ向いた。微かにその肩が震えているのは気のせいではないだろう。
精一杯の想いを聞いてすらもらえなかった悔しさや哀しさ、或いは怒り。
わがままな幼子ではない、けれど決して聞き分けのいい大人にもなりきれていない中途半端な子供。
やりきれない想いを上手く消化できない、可哀想な子供。

「……わ、かり、」
「だから、」

だけど、そんな可哀想な子供がどうしようもなく。

「この桜の花が満開になって」

どうしようもなく、愛しくて。

「そのうち花が全部散って、葉っぱだけになっちまう頃ンなって」

たとえ傷ついても、全身でぶつかってくるこの子供の中に残っていたいと。

「それでも俺のことを覚えてたら、もう一遍ここに来い」

一緒にいたいと、願ってしまったから。

「そんでまた、俺にその続きを言ってみろ。その時ァちゃんと、聞いてやるよ」



生徒でも何でもない、ただの『土方』の言葉として。



紡がれた言葉に、目をいっぱいに開いた土方が顔を上げた。大人びた顔の中に見えたその幼さに銀八はニヤリと笑う。
そしてひとつ瞬きをした後、

「絶対ェ全部聞かせてみせます」

何時もと同じ強い瞳で、つられて土方も朱の入った顔に笑みを浮かべた。






さわりと優しい風が頬を撫で、微かな桜の香が銀八の鼻をくすぐる。
どうかこの甘い残り香が、綺麗に笑う彼の中で消えないように、と。
いずれ来るだろう約束の日を、強く強く、願った。



end.

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ