短編1

□青空エスケープ
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あ、虹だ、と彼が呟く。
空に向けられた彼の視線をたどると、そこにあるのは重く垂れこめる灰色の雲が一面。七色のアーチは何処にも見えない。
雲、雲、雲。
果てしなく広がる灰色のカーテンに光を遮られた町の空気も、どこか重たく見えて嫌になる。
吐き出す紫煙は暫く宙に漂った後、空の灰色に紛れて消えた。
虹なんて何処にも見えねェよ、と笑って言えば、うん、そうだねと呟く声。
彼の声に温度はなく、本当にただただ呟かれただけだった。
自分で言ったくせにという言葉は喉を越えることなく、「音」と化したその言葉によって、胸の中にどろりと黒く淀んでいく。
空へと向いた視線の先は、果たして過去か現在か未来か。
どれかを見ているようで、どれをも見ていないような眼に映った虹。
形ないものに抱くものではない感情が、ざわざわと神経を揺らす。


なぁ、知ってる?


視線を空へ投げたまま問う彼の横顔はまるで人形のよう。あまりの冷たさに、凍えてしまいそうだ。
何の期待もなく、ただいたずらに並べられるだけのヒトガタ。
いつものあの顔が嘘のよう。こんな彼は知らない。
いつもの彼と、今の彼。
作り物なのは、どっち?


虹のふもとには宝物が眠ってるんだぜ。
そんなの、ただの御伽話だろ。


知らない彼は「彼」じゃない。「彼」を呼び留めたくて、いつものように。
ロマンがないねぇ多串クンは、と言ってくるので、多串じゃねェ、と返す。
あぁ、いつもの彼だ。心の中で安堵する。
だけど。


本当に欲しいものなんてのァ、手に入らねェんだよ。


ざわざわ。また神経が揺れる。
だから虹のふもとにとか言うんだ、なんて。
遠い眼は一体何処を見ているの?
無言で見つめるけれど、彼はただ続ける。


それでも、一度欲しいと思っちまったら、諦めらんねェんだよ。―――たとえ、誰かを傷つけてでも。


少し間をおいて、そこまでして欲しいものが、あんのか?と聞いた。答えは、何となくわかっていた、けれど。
彼の眼が初めて此方を向いた。綺麗な紅色の奥は、深い深い闇。縫い留められたようにそらすことができず、じっと見つめ返すしかない。
そして紅色が哀しそうに細められ、口許に緩い孤が描かれた時。


さあねぇ。


ぽつりと聞こえた呟きは、風にのまれてかき消えた。






また彼の眼は、何もない空に探し始める。青空の下、誇らしくかかる七色のアーチ。
雲の隙間から光が差し込み始め、町と彼を照らし出す。
重苦しい空気が取り払われて町が色づき息を吹き返す。
あぁ、だけど。
空が青く晴れ渡り。見えない虹が美しく輝けば。
彼は宝物を探しに行ってしまう。
だからもう少しだけ、もう少しだけ。どうか重たい灰色のカーテンで彼を引き留めて。
彼が青空を求めないように、虹を求めないように。













あぁ、彼が、行ってしまうよ。












end.

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