短編2

□I love you.
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動かし続けていた手をふと止めて顔を上げれば、煌々と蛍光灯に照らされた職員室には銀八以外誰も残っていなかった。
壁に掛けられている電波時計に目を遣る。お先に、と同僚に肩を叩かれてからすでに3時間ほどが経っていて、随分と静かだった気がするのはそのせいかと納得した。
握り締めていた赤ペンを放り投げて伸びをする。凝り固まった全身の筋肉がギシリと鳴く。そうして一気に力を抜いて背もたれに全体重を預ければ、蓄積された疲労が口からため息となって宙に溶け消えた。
休み明けすぐに行われた実力テストの答案が机の上で山となり、余計な振動を与えれば今にも雪崩を起こしてしまいそうだ。
よく校長に仕事を溜めこむなと口煩く言われるが、こんな時は素直にあの忠告を聞いていれば良かったと思う。結局、いつも思うだけで終わってしまうのだけれど。

「…帰ェるか」

一度切れた集中力はなかなか戻らない。二十数年生きてきてそんなのは何度となく経験済みだ。
採点中の答案を適当に引き出しへしまい込んで荷物を片付ける。
椅子に引っ掛けてあった上着とマフラーを手に取り、職員室の電気を消す。
閉じた引き戸の鍵を回せば、ガチャン、と、真っ暗な廊下にやたら大きく響き渡った。
誰もいない校舎では半ば引きずるような自分の足音さえ耳に余韻を残していく。ひやりとした夜気がより一層静寂を強調しているように思えた。

「うお、さっみィ」

職員用の出入口を一歩出た瞬間に吹いた風にマフラーで顔を隠す。
つい最近まで暑い暑いと言っていた気がするのに、と吐き出した息が白く煙るのをぼんやり眺めていた。
ゆっくりと流れているように感じていた季節は、あとふた月ほどで一巡りする。冬の凍てつく夜は暖かな春の陽気へと変わっていく。
きっとその頃には教師はもちろん、生徒たちも新しい生活に向けて慌ただしい日々を送ることになるのだろう。三年生は受験に就職、そしてその先には卒業が控えている。
キャラの濃い奴が集まった、学校一騒がしい銀八のクラスの生徒たちもそれぞれの進路に進むためここを離れていく。いつもと変わらない笑顔で手を振って、いつもと同じように騒ぎながら。
そして自分はこの場所で彼らの――彼の背中を、見送るのだ。

「……はぁ、」

らしくない感傷を誤魔化すように息を吐く。キン、と冷たい空気が肌を刺す。吸い込んだそれは内部から身体を冷やして半ばぼんやりとしていた脳みそを叩き起こす。
さっさと帰ってコタツに潜り込もう。そう思い一歩足を踏み出した時、そこから伸びる自分の影がやたらと濃いのに気がついた。
雲でも晴れたのか。何とはなしに顔を上げたそこには、果たして、きらきらと瞬く数多の星と、それらを輝かせる、まだ真円にはなりきっていない月が浮かんでいて。
澄んだ冬の空気の中、遮られることのない光が世界を包み込んでいて。
そっとこちらを見下ろす月に思わず足を止めてそれを見上げた。
静かな夜空に静かに輝く歪な月。吐き出す吐息が霞をかけて、白い光を柔らかくする。じわり、滲んでいく。
じっくりと月を見たのは何時ぶりだろう。ぼんやりと、ただただじっと月を見上げていれば、ふいに彼の姿を思い出した。
大人というにはまだ純粋で、子供というにはもう綺麗なだけではない。
中途半端な自分にもがき苦しみ、けれど必死に進もうと前を、こちらを見据える強い眼。
いずれ満ちて、力強く全てを照らし出さんとする月に、彼はよく似ていた。
そして誰よりもその光を切望しているのはおそらく、自分なのだ。

「―――綺麗だな」

今頃彼はどうしているだろう。真面目な性格だから勉強でもしているだろうか。
それとも、彼もこの月を見ているだろうか。

「月が綺麗だよ、」

土方、と。
声にならなかった呟きを吐息に溶かして彼を想う。
白く月を包み込む霞のように、自分も彼を包み込めたらと願う。それが叶うことは、ないのだろうけれど。
だから、今はこの月を見上げていよう。
伝えられない想いを飲み込んで彼を見守っていよう。
そっとひとつ、息を吐く。





夜空から降る光が、目に焼きついて痛かった。






end.

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