英雄たち

□白い霧
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杏は花鳥と別れ、ゲームセンターを後にした。
先ほど降っていた雨はかろうじて止み、一面に出来た水溜りは、すっきりしない空を断片的に映している。

「整備の鈴鹿さん、整備の鈴鹿さん、至急事務所まで起こし下さい・・・」

場内アナウンスが鈴鹿さんとやらを呼んでいる。ほかに聞こえるのは、自分と同じようにゲームセンターに来た小学生のはしゃぐ声だけだった。平日の遊園地は、週末の賑わいと比べ物にならないくらい静かだ。


ゲームセンターに隣接したショップのウインドウに自分の姿を映す。

「もー、やっぱうねってる・・」

湿気を持った空気で、せっかくセットした髪がふくらんでいる。
これからバイトの面接に行くというのに、これじゃ気合が入らない。
どうせ着替えなくてはならないし、トイレに寄っておこう。


杏が顔を上げようとしたとき、視界が急に遮られた。

ゴン!

「っ!」

鈍い音と同時に、鼻が熱くなった。
続いておでこがじーんとする。

最悪だ。

顔面をぶつけるなんて、小学生の時ドッジボールをした以来だった。

「あ、ゴメン!大丈夫か?!」

ドアを開けた人物は、慌てて杏に駆け寄った。
ツンとする鼻に目を潤ませ、「だいじょうぶです・・・」と、なんとか答えた。
本当は鼻血でも出そうなくらい鼻の奥が熱いのだが、元来弱気な杏は、とにかく反射的にそう答えた。

「ホントごめん!俺が余所見してたせいで・・・」

ぶつけた張本人は何度も頭を下げ、すまなさそうに謝罪した。
自分より頭二つ分背の高い男に謝られ、杏は逃げ出したくてたまらなかった。
ぶつかったことも恥ずかしいし、こうして謝られるのもいい気分じゃない。一刻も早くこの場を去りたいのだ。
だが、杏のそんな気持ちとは裏腹に、男はこんな提案をした。

「そこに美味しいクレープ屋があるんだ。ぶつかったおわびっていうことで・・・良かったらご馳走するよ。」

男としては何もしないまま少女を帰せないのだろう。精一杯の誠意を見せたつもりだった。
しかし、被害者は首を千切れんばかりにブンブン振って申し出を拒否した。

話すだけでも緊張するのに、知らない人にご馳走してもらうなんて、しかも、男の人に!

「い、いいです、ほんと!大丈夫です!」

そういい捨てると、全力で駆け出した。
杏の勢いに押されて呼び止めることも出来なかった男は、アナウンスにもう一度名前を呼ばれ、少女とは反対のほうへ駆け出していった。


「はーっ・・・」

駆け込んだトイレの壁に体を預ける。
息を大きく吸い、ゆっくり吐き出す。
しばらくそうして、乱れた呼吸を整えることに集中する。

「あーあ・・・」

ようやく心身ともに落ち着き、鏡を覗いた。
走ってきたおかげで髪はボサボサ、おでこと鼻の頭は赤く染まってる。
情けない自分と目が合い、なんだか泣けてきた。
こんな調子じゃ、面接に受かったって、バイトなんて無理に決まってる。

やっぱり、帰ろうかな・・・

杏はかばんから取り出した小さな折りたたみ式の鏡を開いた。
外枠には先ほど花鳥と取ったプリクラが貼ってあった。
その隣にも小さなシールが一つ。
40代くらいの男が凛々しい顔でポーズを決めていた。上下に「KENJI OUME」とローマ字で書かれている。
杏はしばらくふたつのシールを見つめ、気合を入れなおしたらしい。
よし!と小声で呟き、着替えるために個室に入った。


その頃、ホテルの厨房では夕食の支度が進められていた。
誰もが慌しく動きまわるなかで、ペースを乱さず、もくもくと食材を切り続けている男がいた。

「琥!ワイン持って来い!」

貫禄のある声で白髪交じりの男に言われ、琥と呼ばれた男は持っていた包丁を置いて厨房を出た。
ワイン貯蔵庫に入り、言われたものを持って出る。
貯蔵庫を出た拍子に温度差で曇ったメガネをメガネ拭きで拭いた。


ドオオオオオオオオン・・・・


ボイラーの音くらいしか聞こえない廊下で、なにか、妙な音を聞いたのはその時だった。
爆発するような、地響きのような・・・、そして、何故か本能的に恐ろしいと感じる音。
琥は音のするほうへ向かおうとしたが止めた。異変に気づいたからだ。
急速に熱気が迫ってくる。厨房で感じる熱気とはまた違い、湿気を多量に含んだ熱気だ。
むせかえるようなそれに追われ、琥は駆けた。息苦しい。

「逃げろ!」

なんとか厨房まで戻り、それだけ叫ぶ。
皆が慌てて逃げていく様が、琥にはスローモーションのように見えた。


トラックを運転していた宙は、ちょうど正面ゲートの前で爆音を耳にしてブレーキを踏んだ。
停車してトラックから出たのと同時に、地面が揺れ、目の前が真っ白になった。
痛いほどの光が目に飛び込んでくる。
ぎゅっと瞑ったまぶた越しにも、光は脅威なまでに眩かった。
息苦しい。目が痛い。
光は全身を貫くこうとするように、輝くことを止めなかった。


海はHappyTawnとロゴの入ったタイルに傘を突き立て、なんとか体を起こした。
この息苦しい空気、まとわりつく熱気、なにもかも不快だ。
頭が痛い。太陽光を直接見たような圧倒的な光のせいだった。
それだけじゃない。

体が熱い。

汗が流れ落ちるほどに、海の体は発熱していた。
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